仏とは何か?本当にいるのか。釈迦も仏、真理も仏。

仏とは

「仏」は、「ほとけ」または「ぶつ」と読み、佛とも書きます。仏という字は「俳」に由来するともいわれ、人に非ずという意味を含みます。仏は、仏陀ともいい、サンスクリット語で「覚者」を意味します。ちなみに、現代で使われる「死人」の意味はなく、とんでもない間違いです。

悟りの最高位

悟りの52位中、最高位の52位を「仏の悟り」といい、この悟りを開いた人を仏といいます。地球上で仏の悟りを開いたのは、後にも先にも釈迦のみです。そのため、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
・菩薩のゴール
すべての求道者が目指すゴールは仏になることです。四弘誓願の1つに「仏道無上誓願成」というのがあり、これは仏の悟りを開くという誓いです。聖道門は「わが心にこそ仏がいる」という教えですが、そうではなく、仏は、わが心の他にあるのです。

・称号
仏には、十号と呼ばれる10種の称号(呼び名)があり、たとえば「世界で最も尊い」という意味の世尊や、「真如を現しに来た方」の略である如来などがあります。
称号をそのまま釈迦の別名にすることもあります。地球上で仏になったのは釈迦だけなので、称号だけで釈迦を指しているとわかるのです。
また、「釈迦仏」「釈迦如来」「釈尊」など、称号を加えた呼び方をすることもあります。

4種の仏身

仏には4種類の身のあり方があります。

・法身(法性身ともいう)
形のない真理そのものとしての仏身。
・報身(方便法身ともいう)
衆生を救うために、形をとって現れた仏身。阿弥陀仏を指す。形のない法身仏では人間にはわからないため、報身仏が教える。
・応身(現身ともいう)
人間に応じて現れた仏身。釈迦を指す。
・化身
人間に応じて現れた仏身で、釈迦以外の姿を指す。

念写の発見者である福来友吉(東京帝国大学助教授)は次のように、人々の前に現れる仏は幻化相であると言います。
「衆生の前に現れる如来の姿はその法身ではなく、その力用によって造られた幻化相である」
「如来は衆生を済度せんがために幻化相を示現するのであるが、その幻化相の姿は衆生の機根に応じて種々様々である」
「その幻化相が宇宙のいかなる場所に現れるかということも、念によって自由自在に定められるのである」
「『念によって念じた通りの幻化相を示現する』ことは、実験によって証明された心霊学上の根本原則である。そして、この原則がまた、神秘主義としての大乗仏教の神髄、すなわちそれ自体として無色無相にして一切処に偏在する仏の霊が、衆生済度の本願によって、自由自在に種々無量の幻化相を衆生の前に示現するということを説明するものである」
これを量子論で説明しようとすると次のようになるのかもしれません。
「私たちが実際に『仏の心』と感得しているのが4次元世界の見えない心の世界の量子の波動性の阿弥陀仏であり、さらに私たちが実際に『仏の姿』と感得しているのが3次元世界の見える物の世界の量子の粒子性の仏陀である」(岸根卓郎/京都大学名誉教授)

どうしたら仏になれるのか

仏になるには大きく2つの方法があります。1つは自力で52段ある悟りを1つ1つ上がって行く方法で、聖道仏教ともいいます。結論から言うと、この方法は三祇百大劫という途方もない時間がかかり、人間にはできません。自力仏教では助からないので、もう1つの方法を取る必要があります。それが他力仏教で阿弥陀仏の力で解決する方法です。結論から言えば、この方法しか苦悩の根本解決はできません。

仏教には大きく2種類ある。聖道門と浄土門とは

最高の仏

宇宙には無数の仏がいますが、最高の仏が阿弥陀仏です。すべての仏は阿弥陀仏の力で仏になることができたのです。

阿弥陀仏とは?釈迦の先生でもある阿弥陀仏について説明します

正定聚

正定聚とは、「仏になることに定まった人々」という意味です。
「一念発起のかたは正定聚なり」(御文)
(訳:死の解決をすれば正定聚となる)

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る」(教行信証)
(訳:煩悩だらけで、苦悩に沈み罪悪に汚れた凡夫が、死の解決をして他力の信と行を獲れば、時も隔てずすぐに正定聚の位に入るのである。正定聚になるので、煩悩が吹き消された最高の境地に必ず至るのである)

仏と等しい

正定聚は仏と等しい位です。
「正定聚の人は『如来と等し』とも申すなり」(末灯鈔)
(訳:正定聚の人は「仏と等しい」と言うのである)

「信心をうるを喜ぶ人をば、『経』には、『諸仏とひとしきひと』と、ときたまえり」(一念多念文意)
(訳:死の解決をした人は、「諸仏と等しい人」と経には説かれている)

・仏ではない
注意が必要なのは、正定聚は仏と「等しい」のであって、仏と「同じ」ではありません。
悟りには52段階あり、最高位の52段目が仏の悟りですが、正定聚は51段目の位です。仏となるのは死後世であって、現在世はあくまで正定聚となります。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(親鸞消息)
(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏が決して捨てず救い取るので、正定聚の位に定まっている。このため、臨終まで待つ必要がなく、臨終に阿弥陀仏が迎えに来ることを頼りにする必要もない。信心が定まる時に往生もまた定まるのである)

・弥勒と等しい
正定聚の位は、「一生補処の位」ともいい、「人間界の一生を過ぎれば仏になることができる菩薩」という意味です。
一生補処という言い方は、特に弥勒菩薩についていう語です。弥勒菩薩は、今は兜率天で修行しており、釈迦の死後56億7千万年後に仏となることが約束されているため、「補処の弥勒」といわれます。
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに『便同』と曰うなり」(教行信証)
(訳:今、はっきりと知った。弥勒は等覚の金剛心を得ているので、釈迦入滅後の56億7千万年後に仏の悟りを開くのである。死の解決をした人は、他力の金剛心を得ているので、臨終に一念で最上の悟りを開くのである。このため、弥勒と同じ位であるというのである)

「真実信心うるゆえに すなわち定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」(正像末和讃)
(訳:死の解決をすることで正定聚となるので、一生補処の弥勒菩薩と同じ境地であり、最上の悟りを獲るのである)

・仏の親友
正定聚は、「我が善き親友なり」(大経)と、仏から親友と誉め称えられる境地です。
「他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友とぞ 教主世尊はほめたまう」(正像末和讃)
(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏を敬い大きな喜びを得るので、釈迦は「私の親友である」と誉めるのである)

・仏と一緒
正確には1人ではなく、阿弥陀仏を始め諸仏や冥衆(諸菩薩や諸神)が守って下される世界です。
「南無阿弥陀仏をとなうれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげの如くに身にそえり」(浄土和讃)
(訳:死の解決をすれば、観音菩薩や勢至菩薩は、無数の菩薩方と一緒に、影が形にピッタリ随うように、身に寄り添ってくれる)

「南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまうなり」(浄土和讃)
(訳:死の解決をすれば、大宇宙の無数の諸仏が、百重にも千重にも取り囲んで、喜んで守ってくれる)

仏凡一体

仏心(仏の心)と凡心(凡夫の心)が一体となった状態を仏凡一体といいます。死の解決をすることで、仏凡一体の身となります。
「行者の悪き心を如来のよき御心と同じものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり」(御文)
(訳:阿弥陀仏の本願力は、人間の悪い心を仏の良い心と同じものにさせる。こういうことなので、仏心と凡心が一体になるというのである)
・合体とは違う
一体とは、合体とは違い分離することができません。たとえば、合体とはサンドウィッチのようなもので、パンと具を分離することができます。一体は炭についた火のようなもので、炭と火を分離することはできません。
このように、仏凡一体とは慈悲の欠片もない冷たい凡夫の心と、仏の温かい心が一体となり、分離できない状態となります。
「仏心は我等を愍念したまうこと骨髄にとおりて、染みつきたまえり。たとえば、火の炭に、おこり着きたるがごとし。離たんとするとも離るべからず。摂取の心光、我等を照らして、身より髄に徹る。心は三毒煩悩の心までも仏の功徳の染み着かぬところはなし」(安心決定鈔)
(訳:仏心は骨の髄まで徹底して染みつく。たとえば、炭に火がついたようなもので、炭と火を別々にしようと思ってもできない。煩悩に至るまで仏心の功徳が染みつくのである)

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