求道は求信ともいわれ、信仰を求める道です。
「言葉による内省によって到達する悟りの境地も、最後は信ずるという無分別智によって初めて達せられるものである。仏教では、悟りによって得られる知恵を阿耨多羅三藐三菩提と呼んでいるが、この知恵を得るためには、『信力堅固』であらねばならないと、信ずることによってのみ到達できることを述べている」(望月清文/城西国際大学教授)
自力信心と他力信心
しかし、信心には2種類あることを知る必要があります。
人間の信心は自力信心といって、崩れやすく、壊れやすい偽の信心です。死のような圧倒的な苦しみがやってくると、どんなに強固な信念の持ち主でも一瞬で心が折れてしまいます。
一方、阿弥陀仏から賜る信心を他力信心といい、死が来ても絶対に崩れない真の信心です。聖道門では、まことの心があるとも磨けるとも思っており、まことの心をまことの心で磨こうとしていますが、そんな心は人間には用意できません。すべて阿弥陀仏より賜る心です。
「信心といえる二字をばまことのこころと読めるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよきこころにて助かるがゆえに、まことのこころとは申すなり」(御文)
(訳:信心という二字は「まことのこころ」と読むのである。「まことのこころ」というのは、人間の悪い自力の心では助からず、阿弥陀仏の他力の良い心で助かるために、「まことのこころ」というのである)
・他力信心でしか助からない
死の解決は他力信心を獲ることでしかできません。
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」(正信偈)
(書き下し:速に寂静無為の楽に入ることは、必ず信心を以て能入と為す)
(訳:速やかに極楽浄土に入るには、他力信心を獲るしかない)
「他力の信心といふことを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもって叶うべからずと、経釈ともに明らかにみえたり」(御文)
(訳:阿弥陀仏から他力の信心を賜わらなければ、極楽浄土に往生することは絶対にできない。どんな経典や聖教にも明らかである)
・釈迦は方便の役割
釈迦は他力信心へ近づけるための方便の役割を果たしているのです。
「それ、一切の神も仏と申すも、いまこの得るところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、諸々の神・諸々の仏と現れたまふいはれなればなり」(御文)
(訳:一切の神や仏は、他力の信心一つを獲させるための方便として、諸々の神や仏となって現れたのである)
・信心の沙汰をすべき
無常観や罪悪観の目的は、他力信心を獲るためです。他力信心を獲ているかどうかを問題にしなければなりません。
「かたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。これ真実の往生極楽をとぐべきいはれなるがゆえなり」(御文)
(訳:会合では信心の沙汰をすべきである。これが死の解決をするために重要なことである)
「あひたがひに信心の沙汰あらば、これすなはち真宗繁昌の根元なり」(御文)
(訳:互いに信心の沙汰をすることは、真実の求道団体が繁盛する根元である)
「罪の有り無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし」(御一代記聞書)
(訳:罪が有るか無いかを議論するより、信心を獲たか否かを何度も何度も問題にすべきだ)
「万事、信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことを僻ことと仰せられ候う」(御一代記聞書)
(訳:何事にしても他力信心を獲ていないから悪なのだ。善知識が悪と言うのは、他力信心を獲ていないことを間違いだと言うのだ)
信心決定
「しんじんけつじょう」と読みます。
死の解決をすれば軟弱な自力信心から、どんなことがあっても崩れない、壊れない他力信心へと定まってしまいます。
「信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり」(末灯鈔)
(訳:阿弥陀仏に救われて死の解決をした時に、信心が定まるのである)
・金剛心
他力信心のことを金剛心ともいいます。金剛とは仏教用語で、絶対に崩れない、壊れないという意味です。
「信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛の如くなるが故に、金剛の信心と言うなり」(唯信鈔文意)
(訳:信心が破れず、傾かず、乱れないこと、金剛のようであるので金剛の信心と言うのである)
ダイヤモンドのことを金剛石といいますが、ダイヤモンドは非常に硬いためにこう名づけられています。
無常の幸福も、一見するとダイヤモンドのようにキラキラ輝いて見えます。だから人間は惹かれてしまいますが、こちらでも説明したように、実体はすぐ壊れてしまう、いわばガラスのような幸せです。
・どんな非難を受けても変わらない
他力金剛心は、どんな非難を受けようが微動だにしません。
「如何なる人来りて言い妨ぐとも、少しも変わらざる心を金剛心という」(後世物語聞書)
(訳:どんな人がやって来て言い妨げようとも、少しも変わらない心を金剛心というのである)
観経疏には、「四重の破人」といって、次の4通りの人から非難されても微動だにしない境地であると説かれています。
1.智者や学者
2.初地以下の聖者
3.初地以上、十地以下の菩薩
4.仏
死の解決をした人を仏が非難することはあり得ませんが、そのように仮定したとしても微動だにしない境地であるということです。
・死が来ても崩れない
無常の幸福を得ることで生まれる自信は、死ぬ時にすべて崩れるため、自惚れであり偽の自信です。それに対して金剛心は、死が来ても崩れない本物の自信です。
・絶対信順
露塵の疑いもなく信じ切ることができます。
信前は阿弥陀仏に対する疑いがあるために救われませんが、信後は疑いが晴れ救われます。
「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」(改邪鈔)
(訳:苦悩の輪廻の根源である疑情が、他力の信心が開く一念に破れる)
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証)
(訳:阿弥陀仏の本願は誠であった。すべての生き物を決して捨てず救い取ろうという真実の言葉、常識を遥かに超えた稀有な正法、そのままの意味に受け取り自分の考えを入れてはならない)
不幸がやってくると救い主を疑い否定してしまう信仰は偽物です。
キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられた時、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいし」と言いました。
孔子は弟子の顔回を失った時、「ああ、天、われをほろぼせり、天、われをほろぼせり」と言いました。
天台宗の僧侶、瀬戸内寂聴は、腰部の圧迫骨折で入院した時の苦しみを次のように語っています。
「病気の間は、こんなに仏様をおまつりして皆さんにお話ししているのに、こんな痛い病気になって、神も仏もあるものかと思っていました。今度、もし生きて皆さんにお会いできたら、仏様なんかないですよと言ってやろうかと思っていたんです」
「痛くてお経を唱える余裕もなかったんです。コロリと死ねると思っていたのに、こんな痛い目に遭わされて、仏様って本当にあるのかしらとだんだん腹がたってきたんですよ」
このように人間の自力信心というのは、この世の相対的な苦しみにさえ耐えることができません。
一方、他力信心は、たとえ絶対の苦しみである無間地獄の苦しみを受けたとしても、救い主に対して疑いがでない境地です。
・絶対平等
理屈では「差別してはいけない」と誰もが言いますが、本心ではそれがいかに困難なことであるかは、こちらの記事で見た通りです。これが自力信心の限界です。
一方、他力信心は一味平等の世界であり、一切の差別がありません。
こちらで説明したように自力信心は、1人1人業が違うため、1人1人違う信心になります。
しかし、他力信心は、阿弥陀仏から賜る信心であるため、すべての人が同じ信心になります。
たとえるなら、どんな財布であっても、中身である金の価値に違いはないようなものです。高級な財布であろうが、ボロボロの財布であろうが、1万円が入っていれば同じ1万円の価値があります。1万円札は他力信心、財布は私たち1人1人のことをたとえています。釈迦のような優れた人(高級な財布)であろうと、私のような劣った人(ボロボロの財布)であろうと、阿弥陀仏から賜った他力信心の価値に違いはないのです。
正信偈には、「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」と説かれています。「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、衆水の海に入りて一味なるが如し」と読みます。
凡は凡夫、聖は聖人、逆は逆罪を造っている人、謗は謗法罪を造っている人を指します。つまり、「凡・聖・逆・謗」で「すべての人」を意味します。
衆水とは、「いろいろな水」という意味です。すべての川は1つの海に通じており、どんな川であっても海の中に入れば同じ水となります。そのように、どんな人も阿弥陀仏に救われれば同じ喜びの身にさせて頂き、一味平等の世界に遊ぶことができるということです。
親鸞の三大法論の1つに「信心一異の法論」があります。
事の発端は、親鸞が「私の信心と法然上人の御信心とは、まったく同じで変わるところはありません。一味平等であります」と言ったところから始まります。
それを兄弟子である、聖信房、勢観房、念仏房の3人が聞いていました。この3人は、法然門下三百八十余人の中でも上足に数えられるほどの人たちです。3人は親鸞の言葉を聞いて非難しました。
「勢至菩薩の化身であらせられる法然上人の御信心と、我々のような者の信心が同じであるはずがないではないか」
それに対して親鸞は、こう反論しました。
「知恵や才覚、学問や徳が法然上人と一緒だと言っているわけではありません。阿弥陀仏から賜った他力信心が一緒だと言っているのです」
どちらも頑として譲らなかったため、先生である法然に裁断を仰ぐことになりました。すっかり3人は褒めてもらえるとばかり思っていましたが、法然は次のようにハッキリと言いました。
「信心のかわると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。我が賢くて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよく心得らるべきことなり」(御伝鈔)
(訳:信心が変わるのは、自力の信心だからである。智恵や才覚が一人一人異なるために、信心も変わるのである。他力の信心は、人間の善し悪しに関係なく、阿弥陀仏から賜る信心なので、法然の信心も親鸞の信心も少しも変わらず、まったく同一の信心である。法然が賢いから賜わったのではない。異なる信心の人は、自力の信心であるので、法然が行く極楽浄土へは絶対に行けない。よくよく心得るべきである)
信心は人間にとって命です。自分が善知識と尊敬する先生からこのように間違いだと言われたのですから、彼らは地獄に堕ちたような衝撃を受けたことでしょう。
信心決定は100人いれば100人同じ体験をします。そうであることは、2500年前のインドで書かれた聖教であろうと、現代の日本で書かれた聖教であろうと、聖教に食い違いがないことからも知ることができます。相対智の人間が、時代や場所に関係なく同じことを言っているのです。
・明らかな体験
死の解決は、明らかな体験です。
「この光明の縁に催おされて、宿善の機ありて、他力の信心ということをば今すでに獲たり。これしかしながら弥陀如来の御方より授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。かるがゆえに、行者の発すところの信心に非ず。弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明らかに知られたり」(御文)
(訳:阿弥陀仏の光明の働きがあって宿善が積まれ、他力信心を今獲ることができた。この信心はまったく阿弥陀仏が授けてくださった信心であると、すぐに明らかに知られた。このゆえに、人間が起こす信心ではなく、阿弥陀仏から頂いた他力信心であることが、今こそ明らかに知られた)
信前(死の解決をする前) は迷った世界であり迷界といいますが、信後(死の解決をした後)は、悟界といって夢から覚めた世界です。
夢研究の先駆者として世界的に知られるスタンフォード大学の神経生理学者、スティーヴン・ラバージは、「現実世界は夢であり、完全な目覚めと呼べる世界がある」と言いましたが、死の解決は夢から覚めた世界です。
・大学者
他力信心を獲得した人は仏教のすべてを知った智者です。
逆に、どれほど教学があっても死の解決をしていなければ、仏教を知らない愚者です。
知識では幸せになれない。知識のリスク。知識は死の解決のための手段。
他力信心は得難い
経には「極難信法」とあり、極めて信じ難い教えであり、これほど難しいことはないと説かれています。
「もしこの経を聞きて信楽受持せんこと、難きが中に難し、この難に過ぎたるは無し」(大無量寿経)
(訳:仏教を聞いて死の解決をすることは、難の中の難であり、これより難しいことはない)
「善知識に遇い、法を聞きて能く行ずる、これまた難しと為す」(大無量寿経)
(訳:善知識に遇い、法を聞いてその通りに修行することは、また難しい)
「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)
(書き下し:信楽受持すること甚だ以て難し、難の中の難斯に過ぎたるは無し)
(訳:死の解決をすることは甚だ難しく、難の中の難であり、これより難しいことはない)
・行じ易く信じ難い
他力仏教は聴聞するだけなので、実行することは簡単です。しかし、聴聞する目的である他力信心を得ることは非常に難しいことなのです。
・求道は最初から最後まで難しい
スタートからゴールまで、求道はとにかく難しいことだらけです。
「善知識に遇うことも 教うることもまた難し よく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し」(浄土和讃)
(訳:善知識に遇うことも、善知識から教えを受けることも難しい。教えをよく聞くことも難しければ、信じることもなお難しい)
昔から、死の解決まで求め切る人の確率は、「国に1人、郡に1人」といわれます。国と郡は昔の単位ですので、今では都道府県や市区町村にあたります。
この人数しか求道のゴールまで行けないということではなく、それぐらい難しいということです。
単細胞生物から大進化を繰り返し、人間になるまで約38億年かかっています。死の解決をするということは51段目の悟りまで大進化するということです。
それを人間の短い一生で達成するのですから、どれほど難しいことなのか頭だけでもわかるでしょう。
・自力に迷う仏教徒
自力仏教に迷う人は後を絶ちません。
「末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(教行信証)
(訳:末法の世の出家者や在家者、並びにこの頃の各宗の指導者は、自らの心の中に仏がいるという聖道門の間違った教えを信じており、浄土門真実の教えを貶し、定心と散心の自力の信心に迷って、他力の信心を知らない)
浄土宗の管長を務めた福田行誡は、1日7万遍から8万遍の念仏を死ぬまで称え続けたといいます。
しかし、彼は死ぬ間際に弟子から「助かりますか」と聞かれた時、「化土に生まれたらよいがのう」と言って死んでいます。死んでみなければ助かるかどうかわからない教えなのです。そのため教行信証には、「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」と説かれています。「定心と散心の自力の信心に迷って、他力信心を知らない」という意味ですが、これは浄土宗批判です。
善をした時など、無性に集中できる時があります。そういう時は真剣な聴聞ができ、心がこもった念仏を称えることができます。「この調子なら、すぐに死の解決ができるぞ」と喜んだり、「どっこいしょ」している人であれば「間違いなく自分は救われているぞ」とますます自惚れる心です。「どっこいしょ」とは、死の解決をしていないのにしたと思い込み、安心してしまっている状態をいいます。
しかし、調子がいい時だけではありません。人間は悪いこともします。すると、まったく聴聞に集中できません。真剣な聴聞ができず、念仏にも心がこもりません。「こんなことでは死の解決がとてもできない」と嘆く心です。
ある時は助かるように思え、ある時は助からないように思える、それを「定心と散心の自力の信心に迷う」といいます。
信心決定しないとどうなるか
信心決定しなければ、無間地獄に堕ちます。
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」(御文)
(訳:死の解決をしなければ、極楽には往生できず、無間地獄に堕ちるのである)
〇絶対にしなければならない
ですので、 信心決定は「絶対に」しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。
どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。
どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。
死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。
ですので、昔から求道者は「進めば極楽、退けば地獄」と言い聞かせながら求道したのです。
・死ねば仏でも救えない
一度地獄に堕ちれば助かる方法は無く、阿弥陀仏でも救うことができません。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。
ですので、肉体が健康なうちに、一刻も早く心の臨終を済ませ、死の解決をしなければなりません。
「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)
「誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の御文)
(訳:皆早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く深く信じて死の解決をすべきである)
・必ず後悔する
疑情を晴らし死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に信心決定をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)
「彼の衆生地獄に堕つる時、仏において信を生じ追悔の心を生ず」(大悲経)
(訳:人間は、地獄に堕ちる時、仏を思い必ず後悔する)