仏教では「因果の法則」というものを説いています。
因果の因とは行為のことで、果とはその行為が引き起こす結果のことです。つまり、因果の法則とは行いをすれば必ず結果が生ずるということです。以下、因果の法則の要点をまとめます。
業
業とは、サンスクリット語「カルマ」の中国語訳で、日本語では「行為」を意味します。仏教は業が主体の教えです。
・阿頼耶識
業を造ると、人間の本体である阿頼耶識の中に結果を引き起こす力として納められます(薫習という)。
阿頼耶とは、サンスクリット語「アラヤ」に漢字をあてたもので、中国語で蔵という意味です。阿頼耶識は一切の業を納める蔵のような心であるため、蔵識(ぞうしき)ともいいます。また、仏教では心は大きく8つの層に分かれていると説かれますが、阿頼耶識は第8番目の最も深層にある根本の心であるため、根本識ともいいます。
阿頼耶識は生命の本体であり、六道輪廻の主体となります。業の集積体である阿頼耶識は固定不変の存在ではなく、絶えず変化しており、唯識三十頌には「恒に転ずること暴流の如し」と、暴流のように阿頼耶識は激しく変化すると説かれています。
・三業
業は、心と口と身体の3つに分けられ、身口意の三業といいます。
身業:身体で造る業
口業:口で造る業
意業:心で造る業
特に仏教では、心で造る業を重視します。
なぜなら、心が火の元であり、身体や口で造る業は火の粉にあたるからです。たとえば、人を殺すという行為にしても、まず心で殺意を抱き(意業)、その後に「殺すぞ」と言ったり(口業)、実際に人を殺す(身業)という結果となって表れます。
・消えない
一度造った業が消えることはありません。
「業百劫を経といえども、しかも終に失壊すること無し、衆縁の合する時に遇わば、必ず当に彼の果を酬いむ」(大乗成業論)
(訳:業は、たとえ百劫を経たとしても消えることはなく、縁がくれば必ず結果となって表れる)
業には結果となろうとする力があり業力といいます。
悪い行いには悪い結果を引き起こす力があり、善い行いには善い結果を引き起こす力があるということですが、この力の強さは大象百等分とたとえられています。
頓智で有名な一休は、業について次の歌で教えています。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを」
吉野山は春になれば満開に桜が咲き誇りますが、桜の花が木の中にあるわけではありません。
しかし、目には見えなくとも因は木の中に存在しており、陽気といった縁と結びついて、花が咲くという結果になります。
因果の法則の3つの柱
因果の法則は、大きく次の3つの柱から成り立っています。
善因善果:善い行いをすると必ず善い結果が返ってくる
悪因悪果:悪い行いをすると必ず悪い結果が返ってくる
自因自果:自分がやった行いは必ず自分に返ってくる
つまり、善い行いをして悪い結果が返ってきたり(善因悪果)、悪い行いをして善い結果が返ってくる(悪因善果)ことは絶対にないということです。
また、他人がやった行いが自分に返ってきたり(他因自果)、自分がやった行いが他人に返ってくる(自因他果)ことも絶対にないということです。
ちなみに自業自得とは、現代では悪因悪果と同義で使われることが多いですが、本来は自因自果のことを指します。自分が受けるすべての結果は、自分自身が造った業が原因ということです。
・同類因・等流果
因と同様の性質の果が返って来ることを同類因・等流果といいます。悪口という因を造ったために、人から悪口を言われるという同様の果が返ってくるようなものです。
・異熟因・異熟果
因と異なる性質の果が返って来ることを異熟因・異熟果といいます。嘘をつくという因を造ったために、事故に遭うという異なる果が返ってくるようなものです。
・狂いがない
因果の法則は千に一つ、万に一つも狂いがないと説かれます。
「天道施張して自然に糺挙す。綱紀羅網上下相応す。煢煢忪忪として当にその中に入るべし」(大無量寿経)
(訳:因果の法則は、網のように大宇宙を張り巡らしており、一つの罪も逃すことがない。罪を犯した者は一人恐れおののきながら、この網に引きずり込まれ、罪の報いを受けるのである)
・縁
因果の法則は、正確には因縁果の法則といいます。
縁を因に含めて因果の法則ということが多いですが、縁の存在は非常に重要です。なぜなら因だけでは果にはならないためです。たとえば、花の種があるとします。花の種(因)だけでは花は咲きません。水や太陽光や肥料や土といった、諸々の縁の存在があって初めて花が咲くという結果が生じます。生命にしても何にしても、万物は因と縁が結びついて存在しており、これを「因縁和合して結果が生じる」といいます。このことを教えた「引きよせて 結べば柴の 庵にて 解くれば元の 野原なりけり」という古歌もあります。
因果の法則は三世を貫く
三世(さんぜ)とは過去世、現在世、未来世の3つを指しますが、因果の法則は三世を貫いています。
そのため、現在の因や果から、過去の因や未来の果を知ることができます。
「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)
(訳:過去の因を知りたいならば現在の果を見よ。未来の果を知りたいならば現在の因を見よ)
たとえば、現在世で不幸な境遇に生まれた人は過去世で悪い行いをしたということであり、現在世で幸せな境遇に生まれた人は過去世で善い行いをしたということです。
そして、現在悪い行いをしている人は未来必ず悪い結果を受けるということであり、現在善い行いをしている人は未来必ず善い結果を受けるということです。
ですので、次のようなこともいえます。
「悪を行ずるも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり。其の悪にして熟するに至らば、自ら苦を受くることを見む」(成実論)
(訳:悪い行いをしているにもかかわらず楽でいられるのは、悪因が結果となっていないためである。結果となれば苦しむことになる)
・どんな小さな結果も自分が造ったもの
自分が受けるどんな結果も、自分自身に原因があると説かれます。
「卯毛・羊毛の端にいる塵ばかりも、造る罪の、宿業にあらずということなしと知るべし」(歎異抄)
(訳:うさぎや羊の毛の先に付着した塵のように小さな罪でも、過去に自身が造った行為でないものはないと知るべきである)
・三時業
業の結果を受ける時期によって、3通りに分けられます。
順現業:現在世で受ける業
順生業:次の生で受ける業
順後業:次の次の生以後に受ける業
・世の別は業によって生じる
「男女」「賢愚」「美醜」「貧富」等々、この世は生まれながら様々な差別があります。これらの運命は、自分自身の過去世の業によるものです。倶舎論には「世の別は業によって生ず」と説かれています。
ですので、たとえば自分の運命を親など人のせいにするのは間違いで、親は縁にすぎません。父母恩重経には「人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり」と説かれています。自分自身が造った過去世の業を因、父母を縁としてこの世に生まれるということであり、自分が親が選んだということです。
引業と満業の働きも重要です。
引業:一生の内で作った業の中で最も重い業1つをいい、六道のどこに生まれるかを決定づける
満業:引業以外のすべての業のことで、死後の「男女」「賢愚」「美醜」「貧富」等々、あらゆる差別を生み出す
倶舎論には「譬えば画師の先ず一色をもって、その形状を図し、後に衆彩を塡ずるが如し」と説かれています。
引業がまず、人間ならば人間の形を描き、その上に満業が、「男女」「賢愚」「美醜」「貧富」等々の様々な彩りをしてゆくのだという意味です。
釈迦が発見した真理
因果の法則は、釈迦が発見した真理とされています。
よく「釈迦が悟りを開いた」といわれますが、何を悟ったのかというと、この因果の法則を悟ったことを指します。
出家した釈迦は、悟りを開くために山林で厳しい苦行に入りました。禁欲したり激しく肉体を痛めつけることで、何度も仮死状態になったといいます。6年もの苦行の後、「悟りを得ることができなければこの座を立たない」という決意の末、ついにブッダガヤの菩提樹の下で仏の悟りを開いたとされています。釈迦が35歳の時です。
「悟りを開く」というと難しく聞こえるかもしれませんが、「真理を発見した」ということです。つまり、因果の法則は釈迦が造ったものではなく、ニュートンが万有引力を発見したように、すでにある真理を釈迦が発見しただけということです。
・釈迦が1番説きたかったこと
釈迦が1番説きたかったことは因果の法則といってもいいくらい、仏教において因果の法則は重要なものです。
小乗仏教であれ大乗仏教であれ、仏教と名のつくものは因果の法則を基調としています。
「お釈迦様は『原因を根元から捨てれば、終わります』とおっしゃっています。だから因果の法則は大事な話で、結局仏教は、全部、因果の法則の話なのです」(アルボムッレ・スマナサーラ著「ブッダの実践心理学」より)
・仏でも変えられない
すべての生命や万物は、因果の法則に従わなければならず、因果の法則が宇宙を支配しているともいえます。
「仏の三不能」といって、仏でも不可能なことが3つあると説かれますが、そのうちの1つに、「因果の法則をねじ曲げることができない」というものがあります。仏であっても人の運命を変えたりすることはできず、因果の法則に従わなければならないとされています。
・事例紹介
ここで事例を1つ紹介します。
2016年10月14日、東京都港区六本木で、工事中のマンションから鉄パイプが落下するという事故がありました。鉄パイプは通行人の飯村一彦さんの頭に刺さり、飯村さんは死亡しました。
鉄パイプは長さ約1.9m、直径約4cmで、11階建てのマンションの10階部分から落下し、落下防止用の防護板にあった隙間を抜けて頭に刺さったといいます。狙ってもあてるのが難しいと思われる状況です。何かがわずかにずれていれば助かったかもしれません。
たとえば、直撃した箇所が1mmずれていれば助かったかもしれません。防護板の隙間がほんのわずかに狭くなっていれば助かったかもしれません。飯村さんがほんの少し速く、あるいは遅く歩いていれば助かったかもしれません。作業員が鉄パイプを落とすタイミングが一瞬ずれていれば助かったかもしれません。
それだけに「もしこうしていれば助かったかもしれない」と、遺族は大きく悔やむことでしょう。一緒に歩いていた飯村さんの妻はケガはなかったものの「自分が先に歩いていなければ」と自分を責め続け、「あれ以来、道を歩くのが怖くなった」といいます。
このように、ほんのわずかな差で天と地ほどの運命が分かれてしまう例は他にも無数にあります。
あまりに劇的な展開なので、何かしかるべき因縁を感じる人も多いでしょう。飯村さんは大学で建築を学び、その後、大手建設会社に就職、現場監督として定年まで勤めあげたといいますから、この点も何か因縁を感じさせます。わずかなずれもなく直撃する運命に向かっているかのように見えるのも無理からぬことです。
妻は飯村さんについて、「寡黙で優しい人。仕事では何よりも『安全』を重視していた」といいますから、善い行いをしていながら悪い結果を受けたとも思うことでしょう。
しかし、確固たる因果関係が見つからないため、結局は世間では「運が悪かった」など「理由なき偶然」という結論に落ち着くでしょう。原因を見つけたとしても、せいぜい、工事会社や責任者の業務過失というぐらいでしょう。
一方、仏教ではこの場合、因果の法則に基づけば、過去に造った悪業の力が、落下する鉄パイプに直撃するよう男性を動かした、つまり必然だと説明するのでしょう。
・自由意志
注意が必要なのは、仏教は宿業論ではないということです。
宿業論とは、決定論の1つで、宿業(過去の行い)によって現在の運命は決まっていると説く思想です。
宿業論では、自由意志といって、自分の意志で自由に縁を選択できる能力の存在を認めません。そのため、「未来の運命は決定されているのだから、努力しても意味がない」というアキラメ主義となりやすい思想です。最近の研究でも、自由意志の存在を疑う人は他人に協力することをやめたり、反社会的になる傾向にあることがわかっています。
一方、仏教では、自由意志は阿頼耶識に本来的に備わっていると説き、運命は自由意志でいかようにも変えることができると説きます。つまり仏教は、自由意志で悪い縁を遠ざけ、善い縁を近づけるよう努力する、努力主義の教えだといえます。
愚痴
「ぐち」と読み、因果の法則といった真理に無知な心です。「愚」は愚か、「痴」も知が疒(やまいだれ)に入っています。つまり、バカの中のバカということです。莫迦(ばか)の語源ともされています。
・縁を因と間違える
すべての結果は因と縁が結びついたものですが、縁を因だと間違え、縁を恨む心が愚痴です。素直に自業自得だと反省できればいいのですが、自分に原因があるとは思えず、不幸の原因を他人や環境など、他に見出そうとする心です。
「泥棒が縄を恨む」という諺があります。縄に縛られた泥棒が、「苦しいのは縄のせいだ」と縄を恨んでいるということですが、これが愚痴です。泥棒の今の苦しみは、自身の過去の悪い種蒔きが原因であって縄ではありません。
・とっさに愚痴が出る
たとえば、石につまずいたり柱に体をぶつけたりした時に、とっさに石や柱、またはそこに置いた人に対して怒りがでます。小さな痛みだとわかりにくいかもしれませんが、大きな痛みだとより強く出ます。それぐらい人間は愚痴が染みついており、瞬間的に因果の法則をはねつけてしまうということです。
・縁の責任
たとえば、重大な事故や犯罪に巻き込まれた被害者がいるとします。この場合であっても、因は被害者にあり、加害者は縁となるのです。
誤解する人も多いですが、加害者に責任がないというわけではありません。たとえば、交通事故に遭って、「自分が原因だからあなたは悪くない」と考え、示談も何もせずに去っていった人がいますが、これは因果の法則を聞き誤っています。因だけでは結果にならず、加害者には縁としての責任があります。
・愚痴で苦しむ
「人を呪わば穴二つ」という諺があります。人を恨めば自分も恨み殺され、相手と自分の2つの墓穴が必要であることをたとえた言葉です。天に唾吐けば自分に返るように、悪因は必ず悪果となります。
・深信因果
人間は、愚痴の煩悩があるため、因果の法則を深く信ずることができませんが、死の解決をすることで、因果の法則を露塵の疑いなく信ずることができます。これを深信因果といいます。
因果の法則は証明できるか
因果の法則が正しいか、科学は証明できるか、こちらで書いてます。