相対善悪とは
たとえば、10cmの鉛筆があるとします。この鉛筆は20cmの鉛筆よりは短いですが、5cmの鉛筆よりは長くなります。10cmの鉛筆そのものは、長いとも短いとも言い切れません。
このように、比較するものによって変化することを相対的といいますが、善悪も相対的であり相対善悪といいます。つまり、絶対的な善や悪は存在しないということです。たとえば次のような言葉は、善悪が相対的であることを教えています。
「世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ」(ウィリアム・シェイクスピア/劇作家)
「不幸はナイフのようなものだ。ナイフの刃をつかむと手を切るが、とってをつかめば役に立つ」(メルヴィル/小説家)
「異なる精神にとっては、同じ世界が地獄でもあり、天国でもある」(エマソン/哲学者)
「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る」(オスカー・ワイルド/劇作家)
「苦しい時には自分よりもっと不幸な男がいたことを考えよ」(ポール・ゴーギャン/画家)
「さあ、元気を出して。最悪の事態はまだこれからやってくるんだから」(フィランダー・ジョンソン)
「我々に武器をとらしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。しかも、しばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である」(芥川龍之介)
殺人でさえも相対悪です。殺人を絶対悪だと思っている人は多いですが、そういう人でも、たとえば死刑や安楽死といった問題となれば価値観が揺らぐでしょう。
光市母子殺害事件で妻と娘を殺された男性は、「国家が死刑にしないなら、私が殺す」と言いましたが、家族が殺されれば誰でも彼のように、「犯人を殺しても殺しても飽き足らない」という感情が沸き上がります。
2019年内閣府調査によれば、「死刑制度について『やむを得ない』と答えた人は80.8%で、『廃止すべきだ』の9.0%を大幅に上回り、死刑容認の理由は、『廃止すれば被害者や家族の気持ちがおさまらない』(56.6%)が最多」とあります。
人間にはこの感情があるため、戦争をなくすことは難しいでしょう。イギリスの動物学者、デズモンド・モリスは、世界的ベストセラー「裸のサル」で「皮肉なことに、仲間を助けようとする根強い衝動の進化こそ、戦争という大惨事のすべての原因なのである」と言います。また、戦時中には、多くの敵を殺すことで称賛され勲章が授与されます。
安楽死の問題では、単なる延命治療について、「やめたほうがよい」、または「やめるべきである」と回答した人は、一般国民で74%となっています。(平成15年厚生労働省)
このように、「殺人は悪とは限らない、場合によっては殺人も善だ」と思っているということです。
善悪はコロコロ変わる
「禍福は糾える縄の如し」という諺があるように、善が悪になったり、悪が善になったりとコロコロ変わります。
たとえば、次のように車で送ってあげることは親切であり善ですが、その車が事故に遭えば悪に変わるといった具合です。
1:車で送ってあげる(善)
2:車が事故に遭う(悪)
金持ちになったために狙われて殺された人は数多くいます。
「有名になる」「仕事に成功する」「恋愛が成就する」「結婚する」「子供が生まれる」「病気が治る」「受験に合格する」等々、世間一般で幸せや成功、善とされていることすべてにいえます。善い結果を受けたと思っているかもしれませんが、悪い結果を受けたのかもしれないのです。
「成功も、その人にとっては試練なのです。あの人がもし、あのとき、あんな成功をしなければ、もっとまともな人生であっただろうな、ということはいくらでもあるのです」(稲盛和夫/経営者)
逆もしかりです。苦を悪と思いがちですが、後になって「あの苦しい経験があったから今の自分がある」などと感謝することはよくあることです。
科学では、実験の失敗から新しい発見をすることもよくあります。マイケル・ジョーダンは高校の時にバスケチームから外され、ウォルト・ディズニーは創造性が足りないという理由で新聞の編集者をクビになり、ビートルズは「もうギターバンドは流行らない」と言われてレコード会社を追い返されています。
東京オリンピックの開催に反対していたものの、選手の活躍を見るや「開催してよかった」と変わった人も多くいました。
「貧乏になる」「嫌われる」「仕事に失敗する」「失恋する」「離婚する」「子供を失う」「病気になる」「受験に落ちる」等々、世間一般で不幸や失敗、悪とされていることすべてにいえます。悪い結果を受けたと思っているかもしれませんが、善い結果を受けたのかもしれないのです。
死ぬまでわからない
2で終わらずさらに3、4、5、6・・・という具合に、善悪は無限に変わっていきます。時間的に最後を基準にしないと、その時点の善悪は判断できません。人生における最後とは死ですので、死を基準にしないと正確には判断できないということになります。
近視眼的な善悪観
ところが人間は極度に近視眼的です。
「人間は時間的に近視眼的である。煙草が喫煙を開始して数十年後でなく1週間後での発ガンの原因となったとしたら、タバコ業界が全世界で兆ドル規模の産業になど決してならなかっただろう」(ディーン・ブオノマーノ/カリフォルニア大学ロサンゼルス校神経生物学・心理学部教授)
あるタレントが、犯人扱いされ逮捕されるという内容のドッキリを仕掛けられたことがありました。絶望的な表情で落ち込んでいたところでネタばらしをされると、そのタレントは安堵の表情を浮かべ、「ありがとうございます!」と仕掛け人に対して何度も感謝していたのです。
冷静に考えればドッキリを仕掛けたほうが悪いのですが、なぜ被害者が御礼を言うのでしょうか。それだけ目先のことにしか目が向かないということです。おそらく時間が経てば感謝から怒りに変わることでしょう。
ストックホルム症候群と呼ばれるものがあります。これは、極限状態に置かれた被害者が犯人に対して好意的な感情を抱く現象です。
人間に善悪はわからない
しかし、時間が経つほど善悪はコロコロと変わり、最終的にどうなるのか把握することは非常に難しい問題です。バタフライ効果というのがありますが、チョウが羽を動かすだけで遠くの気象が変化し、竜巻が起こることもあり得るのです。あまりに複雑すぎて、善悪は人間の智恵ではわからないといえます。
「バタフライ効果は大げさに聞こえるが、いまやわれわれはそれが真実であることを自然界や人間社会のあらゆる場面で日常的に見ている。気象、洪水や土砂崩れ、株価暴落、一瞬のよそ見が引き起こす悲劇的な交通事故、ばかげたもめごとからいっきに軍事衝突に発展する国家間の対立。この世界に完全な秩序は存在せず、すべての出来事は無限に変転し、まったく同じことは2度と起こらない。たえず生じる取るに足らない小さなきっかけが、明日には全体を混沌と無秩序へと導く、これが現実世界の本質だとカオス理論は述べている」(矢沢サイエンスオフィス「科学の理論と定理と法則」より)
たとえば、「やっていいことと悪いことぐらいわかる」と思っているのは、まだ相対善悪がわかっていません。やっていいことと悪いことの区別もつかないのが、人間の本当の姿なのです。
「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(正像末和讃)
(訳:何が善で何が悪かがわからないという人は皆、真の心を持った人である。善悪がわかると言っている人は、大嘘つきの姿をしているのである)
中国は唐の時代、いつも樹の上で瞑想していた鳥巣という僧侶がいました。
ある日、いつものように瞑想していると、儒学で有名な白楽天が下を通りかかりました。
(これが、かの有名な鳥巣か・・・)
白楽天が鳥巣を見つけるや、「仏教とは何ぞや」と問いました。かねてより仏教に関心を持っていた白楽天は、鳥巣ほどの僧であれば申し分ないと思ったのです。
すると、鳥巣は「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」と答えました。これは、「悪をやめて善をするのが仏教である」という意味です。
それを聞いた白楽天は、「そんなこと子供でも知っている」と笑いました。
しかし鳥巣はすかさず、「3才の童子も知れるが、80才の翁も行うは難し」と返したといいます。
善知識
善悪というのは非常に複雑ですので、それがわかる先生の存在が非常に重要になります。そういう先生を仏教では善知識といいますが、善知識についてはこちらで詳しく説明します。
一切は善でも悪でもない
この世の一切は白紙のようなもので、善にも悪にも変えることができます。華厳経には、「牛、水を飲めば乳とする。蛇、水を飲めば毒とする」と説かれています。
「柳下恵は飴を見て老人を養う物とし、盗跖は錠を開くるに良き物とす」という諺があります。
中国は周の時代の大盗賊、盗跖は盗みに入るための道具に水飴を使いましたが、弟の柳下恵は老いた母親に孝行するために使ったという意味です。
仏教には不二という言葉があります。紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということですが、善悪は不二です。
善と悪はワンセット
善悪というのは人間の心が生み出したものであり、一切は、善と悪の両面があります。「100%善だけ」とか「100%悪だけ」ということはなく、比較の問題です。
「タオ自然学」で知られる物理学者のフリッチョフ・カプラは、「科学はわれわれを仏陀に導くこともできるし、あるいは爆弾に導くこともできる」と言いました。
自動車は便利ですが、多くの死者も出します。
新型コロナウイルスのため自粛して蔓延を防げたと思ったら、今度は経済活動が停滞、そうかと思えば一方で自然環境が改善しインフルエンザも激減しました。ワクチンもメリットとデメリットの両方があるから賛否両論が出るわけです。
パラケルススという医師は「あらゆるものは毒であり、毒無きものなど存在しない。あるものを無毒とするのは、その服用量のみによってなのだ」と言いました。
どんな苦しみにもメリットがあり、どんな楽しみにもデメリットがあります。
善い結果を受けたと思っているかもしれませんが、必ず悪い結果も受けています。悪い結果を受けたと思っているかもしれませんが、必ず善い結果も受けています。正確にはこういうことがいえます。
涅槃経には次のような話があります。
ある家に、非常に美しい女がやってきました。
「私は功徳大天と申します。私は伺った家に望むだけの財宝をもたらすことができます」
家の主人は喜び早速もてなそうとしますが、傍にもう1人醜い女がいたことに気づきます。
「私は黒闇と申します。私が伺った家は財宝を失います」
それを聞いた主人は怒り、刀をふりあげて追い出そうとします。しかし、黒闇は言いました。
「私は功徳大天の妹です。姉とはいつでも一緒に行動しています」
主人が功徳大天に確認すると、確かにそうだと言います。
「私はいつも幸せをもたらし、妹はいつも不幸をもたらします。私を愛するなら妹も一緒に愛してもらう必要があります」
主人は驚き、両方追い出すと平穏がやってきたという話です。
徳川家康に関する有名な話に次のようなものがあります。
ある宴の席で、家康は「1番美味いものは何か」と側室のお梶に聞きました。するとお梶は「塩でございます。塩がなければどんな料理も美味しくできません」と答えました。さらに家康は「一番まずい物は何か」と聞きました。するとお梶は「塩でございます。どんな美味しいものでも塩を入れすぎたら食べることができません」と答えました。それを聞いた家康は「まことに、そなたの言うように、美味いも不味いも塩加減じゃ、とかく世の中はよきにつけ悪しきにつけ、塩加減1つじゃ、忘れまい、忘れまい」と言ったといいます。
悪を善にする努力
悪とされていることも、ある程度は考え方次第で善にできます。次のような言葉はそのことを教えています。
「世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ」(ウィリアム・シェイクスピア/劇作家)
「不幸はナイフのようなものだ。ナイフの刃をつかむと手を切るが、とってをつかめば役に立つ」(メルヴィル/小説家)
「異なる精神にとっては、同じ世界が地獄でもあり、天国でもある」(エマソン/哲学者)
「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る」(オスカー・ワイルド/劇作家)
「私は実験において失敗など一度たりともしていない。この方法ではうまく行かないということを発見してきたのだ」(トーマス・エジソン)
不幸を勝縁にする大切さは説明しました。
どうしても善悪を区別してしまう
頭では善悪が不二であることがわかっていますが、腹底ではそうは思っていません。どうしても善悪の区別をしてしまい、絶対的な善や悪があると思ってしまうのです。そのことがわかる次のようなエピソードもあります。
「往生要集」で有名な源信が7歳の時のことです。川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。それを見て源信は尋ねました。
「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」
「浄穢不二といって、私たちには綺麗も汚いもないのだよ」
こう答える僧侶に源信は再び尋ねました。
「ではなぜ洗うのですか」
洗うということは汚いと思っているということであり、綺麗と汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。
僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。
この話からは、自力仏教の限界もわかります。この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまう境地にとどまっていたのです。
このように言っていることとやっていることが矛盾しているのを見て、「仏教は大したことがない」と侮る人も多いでしょう。
善悪がある世界は苦しみの世界
善悪や苦楽の区別がある世界に真の安らぎはありません。善悪の区別がない境地は実在し、人間はその境地に達することが可能であり、可能であるだけでなく人生の目的です。そして、その境地に出るには自力仏教ではなく他力仏教でなければならないのですが、これについてはこちらで詳しく説明します。
相対善悪を腹底で知る
腹底から相対善悪を知る必要があり、そのためには一生懸命悪を止め、善をするよう努めなければなりません。「善悪がわからない」とわかるまで善をする必要があるのです。
・善悪がわかってくる
善悪は非常に複雑ですが、求道していくと「今、この瞬間何をすれば善になり悪になるのか」が、ある程度、自ずと体験的にわかるようになってきます。
・善悪がわからなくなってくる
行学(行動して学ぶこと)の結果、善悪が相対善悪であることが体験的にわかってきます。つまり、求道が進むにつれ、何が善で何が悪なのかわからない自己が見えてくるということです。死の解決に近づいているのか遠ざかっているのか、何が近づく行為なのかがわからなくなってくるのです。
「是非しらず 邪正もわかぬ このみなり」(正像末和讃)
(訳:善悪も正邪もわからないのがこの私である)
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」(歎異抄)
(訳:何が善であるか何が悪であるか、どちらもまったくわからない)
相対善悪から絶対善悪へ
仏教の最終目的は、絶対の世界へ導くことです。
・相対善悪の重要性
いきなり、絶対の善悪を説いたところで、相対的な智恵しかない人間にはわかりません。ですので、絶対的な善悪を認識させるために、まずはわかりやすい相対的な善悪を説かれたのです。
仏教では、絶対的真理(真諦という)と相対的真理(俗諦という)は密接不二の関係にあると説きます。不二とは、紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということです。
「大乗仏教では,真諦を説くにも世俗の言語や思想をもってせねばならず,世俗諦によらねば真諦へは至れぬとして,真俗二諦は不二と説く」(百科事典マイペディア)
・相対悪から絶対悪へ
一生懸命善をし、十悪や五逆罪といった相対悪を見つめることで、やがて謗法罪や一闡提といった絶対悪が見えてきます。人間には、膨大な罪悪(絶対悪)を自覚できるだけの能力が備わっているのです。
別な見方をすれば、相対的な善には、絶対の世界へ導く強い力があるともいえます。ですので、相対的な善や悪、苦や楽だからといって侮ることはできません。
・表現できない罪悪
絶対悪は、相対智の人間にはわかりづらいものです。
相対悪を造れば相対苦が返ってきますが、相対苦でさえ強くなれば筆舌に尽くし難い苦しみです。まして絶対悪です。造れば苦の極みである絶対苦となって返ってきます。
口に出してしゃべれたり、言葉で表現できるような罪悪は大した罪悪ではありません。罪悪ではありますが、そんな罪悪ではなく、もっともっと深刻な罪悪があるのです。そして、その筆舌に尽くし難い世界は聴聞でしか知ることができません。
・もっと大きな悪に目を向ける
罪悪には大小レベルがありますが、人間の善悪観はトンチンカンで、大きい罪悪を大きい罪悪と思えません。たとえば、頭では謗法罪が1番重いと聞かされても、腹底では法を謗ることより親を殺すほうが重いと思っています。
人間の本性が悪性だと思っている人も多く、罪悪感に苛まれ苦しんでいる人も多いですが、今見えている罪悪は氷山の一角にもならないレベルです。それは、たとえるなら膨大な1億の罪悪に目を向けず、1や2の罪悪を気にしているような状態です。
世間でいう善人や悪人といった言葉は、目くそが鼻くそを笑っているような世界で、高が知れています。絶対悪が見えるまで、もっともっと罪悪観を問い詰める必要があります。
死の解決の境地と善悪
〇罪悪が消える
これまで造った膨大な罪悪はすべて消えます。
・業報は受ける
仏でも因果の法則には従わなければなりません。
「仏の三不能」といって、仏でも捻じ曲げることができない3つの真理があると説かれますが、因果の法則はその1つです。ですので、死の解決をしても罪悪が消えることはなく、罪悪の結果(業報)は受けなければなりません。
・業報を感じない
しかし、業報を受けてもそれを喜びに転じることができます。ですので、業報を悪果と感じず、結果として悪果を受けないのと等しいことになります。
「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき故に、無碍の一道なり」(歎異抄)
(訳:死の解決は、何も妨げとなるものがない絶対の世界である。その理由は、死の解決をした人はすべての神々が敬って平伏し、どんな悪魔や外道も妨げることはないからであり、どんな罪悪も業の報いを感じさせることができず、どんな善もこの境地に及ばないからである)
「一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり」(御一代記聞書)
(訳:死の解決をすると罪悪がすべて消えるというのは、他力の信心の力によって往生が定まった時は罪悪が妨げとならないので、罪悪が無いのと等しいという意味である。しかし、この世に命がある限りは、罪悪は尽きないのである)
泥棒の耳四郎は、深い業を持っていたために、信後も泥棒が止みませんでしたが、それを聞いた師の法然は、「そうか、そんなやつは極楽に放り投げておけ!」と言ったといいます。
死の解決は、平生業成ともいい、平生(生きている時)に業事成弁(往生)するということですが、このような境地に出て初めて真に自由の身となれるのです。
・罪悪があるほど喜びも多い
悪果と感じないどころか喜びの種となるので、罪悪が多ければ多いほど喜びも多くなります。
浅原才市は、「こら阿弥陀 助けたいなら 助けさそ 罪は渡さぬ 喜びのもと」と詠みました。
・罪悪を造ろうとは思わない
だからといって、積極的に罪悪を造ろうと思うわけではありません。たとえば、罪悪が多いほど喜びも多いから、積極的に人を殺したくなるのかというとそういうことではないのです。
・善悪に関係ない
死の解決は善も欲しからず、悪も恐れずという境地で、善悪に関係なく喜べる境地です。
「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)
(訳:善であろうと悪であろうと因果の法則にまかせて、ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)