真実を広めることは最高の利他行
真実の幸福である死の解決に人を近づけるわけですから、最高の利他行となります。
どんな自利があるのか
布教の本当の目的は、人のためではなく自分のためです。
たとえば、次のような自利があります。
・自己がわかる
真実を広めることで宿善が積まれ、自己がわかり求道が進みます。これが最大の自利になります。
・真剣になる
たとえば、自分のためだと真剣になれないけれど、人のためなら真剣になれるということがあります。日頃、授業を真面目に聞かない生徒が、休んだ友人のために真面目に聞くといった具合です。
暗記に関するロンドン大学の実験で、最初のグループには「あとでテストするから暗記してください」と言い、別のグループには「あとで他の人に教えてもらうので暗記してください」と言ったところ、後者のグループのほうが高い点をとったといいます。
これだけではありませんが、 真実を広めることは真剣な聴聞につながります。
・ 真実を広める楽しさ
真実を話す楽しさ、利他の楽しさ、求道が進む楽しさetc.布教には様々な楽しみが詰まっています。
・無尽の灯
他にも、因果の法則から、最高の利他をすれば、様々な自利がやってきます。
真実の仏法をAさんに伝えれば、Aさんは必ず良い影響を受けます。そして、Aさんが接するBさんにも良い影響を与え、さらにBさんに接するCさんにも良い影響を与え、さらに・・・という具合に、1人の人に仏教を説けば多くの人に良い影響を与えることになります。
ある研究によれば、1人の人に親切にしたり良い影響を与えれば3次の関係(友達の友達のまたその友達など)まで波及し、約1000人に良い影響を及ぼすといいます。
仏教は無尽灯法門ともいいます。布教することでエネルギーが消費されるのではなく、一つの灯火が無数の灯火の火種となるように、次々と伝わって尽きることはありません。自分が火種となって伝えるという心がけが大切です。
「ある人の思いやりある行為が、他の誰かに感謝の気持ちを芽生えさせる。メンバーの1人が誇りを抱くと、チームにいる他のメンバーも同じ気持ちになる」
「すべての感情は伝染性があり、まるでウイルスのように周囲にたちまち広がっていく。周りの人が幸せなら、その喜びはあなたにも伝染しうる。あなたが悲しいなら、一緒にいる人も憂鬱な気持ちになるだろう」(デイヴィッド・デステノ/ノースイースタン大学心理学教授)
布教に極まる
古代ローマの哲学者セネカは、「人は教えることによって、もっともよく学ぶ」と言いましたが、「仏法は布教に極まる」といっていいくらい、布教は重要なものです。
・1番重要な誓い
すべての求道者が、求道をスタートする時に立てるべき4つの誓いがあり、四弘誓願といいます。
衆生無辺誓願度:すべての生物を救うという誓い
煩悩無数誓願断:規則正しい生活をするという誓い
法門無尽誓願学:仏法をすべて学ぶという誓い
仏道無上誓願成:死の解決をするという誓い
1番最初に「衆生無辺誓願度」が立てられていますが、この流れの通り、他を救うことが最優先です。衆生とは生きとし生けるものすべてを指し、もちろん人間も含まれます。
・聴聞だけだとバカになる
基本的に聴聞は自利で、布教は利他という関係にあり、聴聞と布教は車の両輪のようなものです。
頭でただ聞いているだけでは真剣な聴聞はできません。早い話が、頭だけの聴聞ではバカになってしまうのです。
布教することで真剣な聴聞が可能となります。もっと言えば、布教そのものが聴聞となるのです。
・宿善をドブに捨てている
長年、聴聞をしていながら布教になると尻込みしてしまう人は多くいます。
要するに、棚ぼた式に仏教と出遇う人がほとんどなので、大して有難いと思っていないからですが、自己にしても何にしても、仏教は人に教えていかないとわかるものではありません。多くのメリットがある布教をしない人は、命を無駄にし宿善をドブに捨てているようなものです。
布教ができない、布教する機会を作れないというのは求道者として致命的です。
布教の心がけ
心がけの例をいくつか挙げます。
誰を布教するのか
もちろん、すべての人や生物に仏縁を結ばせようという心がけが大前提です。しかし時間は限られているので、誰に時間を割くべきか優先順位をつけることが大切です。いくつか例を挙げます。
・大切な人
家族など、自分に縁のある大切な人に伝えようとするのは当然です。家族に仏教を伝えないというのは、求道者としてあり得ません。
「わが妻子ほど不便なることなし。それを勧化せぬは、浅ましきことなり」(御一代記聞書)
人生の実相を伝えるのは苦しいことです。死後が必ず地獄だと言われて喜ぶ人はいません。それでも真実である以上、伝えなければなりません。
「私の家族は、やはり人間で私と同様の境遇に属している。彼らは虚偽のうちに生きているか、そうでなければ恐ろしき真理を見なくてはならぬ。私が彼らを愛する以上、私は彼らに真理を隠すことができない。その真理とは死のことである」(トルストイ)
家族のような特別深い人間関係において、互いに宿善があるというのは幸せなことです。
・宿善がある人
釈迦のような、仏教の価値がわかる人、つまり本当に仏教を求めている宿善が厚い人を探すべきです。そういう人が真実の仏教と出遇えばすぐに死の解決をし、猛烈な勢いで布教するようになります。
釈迦のような人を1人発見できれば、その恩恵は人類にとって計り知れません。自分の求道にも良い影響を与えます。あなたが大して仏教に価値を感じていなくても、そういう宿善のある人が価値を教えてくれます。
宿善の厚い人を見つけるために布教活動をするといってもいいくらいです。伝えようとしないと、そういう人がいることさえわかりません。
・真剣な人
真剣に聞く人というのは説く方も真剣にさせます。
「最高の授業には、最高の教師と最高の生徒が必要だ」と言った人がいますが、説く側と聞く側の両方が真剣になって初めて火花が散るのです。
巣鴨拘置所の教誨師としてA級、B級、C級戦犯の多くを世話した花山信勝は、次のように死刑が迫った老将軍たちの真剣さに自分も引きずられたと語っています。
「1時間の勤行と法話の間身動き1つせず、謹厳そのものの姿で、真剣に聞いて下さったことを、いまもなお忘れることができない。顔からは、汗がダラダラと流れ落ちるのが、よく見えた。しかし扇子もつかわず、ハンカチでぬぐおうともしなかった。人生一大事の『死』の前には、そんなことは、問題でなくなっていたのである。私も、自然、その真剣さに引きずられて、ポタリポタリと顔から汗を流しながら、ぬぐうこともせず、法話をつづけたのである」
・若い人
「若きとき、仏法は嗜め」といわれるように、求道は特に若い時にやるものなので、若い人に伝えるべきです。
・権力者
リーダーと呼ばれるような影響力のある人を布教することで、その人の下についている人たちも同時についてくるので、布教スピードが速くなります。これは世間事でも同じことがいえるでしょう。
・縁がある人
すべての出会いは、それだけで何らかの特別な因縁があると思われます。
仏教の教えからきている「袖振り合うも多生の縁」という諺があります。良くも悪くも、現在世で深い関係であるほど、過去世でも深い関係にあったということであり、そして未来世以降でも深い関係になるのではないでしょうか。
仏教には、一期一会という言葉があります。一瞬一瞬の出会いを大切にするということですが、この心がけを持ち、目の前の人の救済に全力を尽くさなければなりません。
釈迦の代官
法を説く時は、釈迦の代官を務めているという心がけが大切です。
・そのまま伝える
自分の考えを入れたりせず、釈迦の教えをそのまま伝えなければなりません。
「如来の教法を、十方衆生に説き聞かしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞珍しき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」(御文)
(訳:仏教を人に説く時は、ただ釈迦の代官を務めるだけである。私は誰も聞いたことないような珍しい教えを弘めているのではなく、釈迦の教えを私も信じ、人に教えているだけなのである)
つまり、偉大なコピーロボットになるということです。
・理想を言うことで理想に近づく
人に理想を言うことで、自分の心を理想に近づけることができます。自分が完璧にわかっており、できているから人に言うのではなく、わかっておらず、できていないからこそ人に言い、自分に言い聞かせるのです。もっと言えば、わかっていないこともわかっておらず、できていないこともわかっていない状態ですので、その姿を自覚するためです。
人間は煩悩があるため、何もしないでいると、意識するとしないとにかかわらず真実を(つまり仏教を)信じられない方向にバイアスがかかっていきます。ですので、信じられるよう努める必要があり、信じられないことを言って信じられるようにするともいえます。
たとえば、第3巻で説明したように、人間は自分の死を信じることができず、「自分だけは絶対に死なない」と思うよう力が働いていますが、人に伝えることで、その力に抵抗することになり、自分が死ぬという自覚ができるようになります。
・ポジティブ
いくら心が暗くても、嘘でもポジティブな言葉を発することが大切です。冗談でもネガティブなことを言えば、1つの業として必ず染みつきます。暗いと周りも自分も苦しめてしまいます。明るく振る舞うことは社会生活で最低限度のことでもあります。暗いと言われているような人は、明るく振る舞い続けるエネルギーがない人であり子供です。いつも元気でいつも生き生きとするのが大人です。
思考の80%がネガティブなことだという研究もあるようですが、人間はネガティブになりやすいので、意識的にポジティブになろうとすることが大切です。様々な人が語っている通りです。
「暗闇を呪うよりも、ロウソクに火をつける方がよい」(中国の格言)
「たとえ劣勢にあっても、逃げないこと。たとえどんなに負けていても、自分は勝てると、いつも信じなくてはならない」(タイガー・ウッズ/プロゴルファー)
「環境が冷たくなればなるほど、自ら生き抜く精神は火のように燃えさかり、私は、一心に縫物に打ち込むのでした」(中村久子/社会活動家)
「球は、バーンと打てばバーンと飛んでいくんだよ」という長嶋監督の言葉は、観念の力の重要性、成功イメージの重要性を教えてくれます。
勝海舟が青柳という料理屋へ行った時のことです。
入ると店員が忙しそうにしていました。
「景気が良さそうだな」
勝海舟が話しかけると、女将は意外なことを言いました。
「大きな声で言えませんが、実は、いまお金がなくて潰れるかどうかの瀬戸際なんです。しかし、明るく振舞わないと自然と人気が落ちてしまいます。だからどんなに苦しくても明るく振舞っているんです」
感心した勝海舟は、勉強代として30両を渡したといいます。
「世界一清潔な空港」に選出された羽田空港のベテラン清掃員として、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも取り上げられた新津春子という人がいます。彼女は、「前の日、どんなに帰りが遅くなっても、どんなに二日酔いでも、朝5時に起きて掃除をします」と言い、毎日、出勤前に1時間掃除するといいます。
そんな新津は、次のような話もしています。
「楽しく見せることは必要だと思っています。なぜかというと、落ち込んでいると、まわりの人が近づけなくなってしまうから」
「無表情だと本人としては別に怒っているわけじゃなくても、相手から見ると怖く見えるんです。つまり、『私に話しかけないでください』と言っているように見えてしまうんですね」
「だから、嫌なことがあったときほど、楽しそうな顔を作る必要があるんです」
無表情は軽蔑にとられるという研究もあるようです。
いずれにせよ、仏教で説かれるように和顔愛語は基本中の基本です。
・確信した言い方をする
次の2つの言い方を考えてみます。
1.悟りは実在するかもしれない
2.悟りは実在する
「悟り」を体験しておらず確信できないため、1の言い方をする人が多いでしょう。しかし、この言い方では信仰がついてこないので、やがては断定した言い方をすべきです。確信してなくとも、確信した言い方をすることで確信に近づくことができます。いわゆるアファメーションです。ちなみに、あとの「廃立」のところでも説明しますが、断定した言い方をすると批判を受けやすくなりますが、それでいいのです。
また同じ理由で、ある程度求道が進んだら、信前(死の解決をする前)の人でも、「私は死の解決をしている、真理を悟っている」という信後(死の解決をした後)の人のように振る舞うことも有効です。
私の著書でいえば、第1巻は前者の信前の人間がする言い方をし、第2巻以降では後者の信後の人間がする言い方を基本的にしています。信前の立場で説明するメリットもあるためそうしているのですが、第1巻も信後の言い方に書き直すかもしれません。
・救う側の視点がわからない
救う側にならないとわからないことがあります。たとえば、救われる側の人間は救う側に対して様々な不平不満を言います。しかし、救われる側だと不合理に思うことでも、救う側になれば合理的だとわかったりします。
・常に諫める
このように理想の姿の真似、つまり善知識の真似をする努力は大切ですが、「自分には人を導く力はない」といった謙虚な姿勢も身につける必要があります。信前の人間が善知識としての素質があると自惚れていれば、必ず悪知識となってしまいます。
・しゃべるほど信じていく
良くも悪くも、人に言えば言うほど強く信じていきます。
正しいことを言えば正しい信仰につながりますが、間違ったことを言えば間違った信仰につながります。間違った教えを人に伝えれば、人を狂わすだけでなく自分もますます深く信じて狂っていくのです。
そして、その狂った自信から人を誘おうとしますが、人は、正しいか否かに関係なく、自信があるというだけで信じてしまいやすいです。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンの研究チームが学生たちを被験者として行った実験によれば、多くの人が相手が「博識」なのか「自信過剰」なのかを区別できず、結果として自信過剰な人の言うことに誤ってしたがってしまう傾向があったといいます。
また、アムステルダム大学のリチャード・ローナイの研究チームが経験豊かなプロの人事コンサルタントを被験者として行った実験によれば、的確に自己認識ができている志願者よりも自信過剰の候補者のほうが推薦されることが多く、「現実的な自己認識」と「口から出任せ」を区別することができなかったといいます。
このようにして狂った教えを信じた狂った人たちが増え、徐々に狂った団体ができあがっていきます。「大衆」というのはそれだけで力があるので、その力も加わります。そしてナチスもそうであったように「科学」を装ったり、都合よく味方につけながら、さらに多くの人を取り込み巨大化していきます。やがて歯止めがきかなくなり、ナチスのような最悪の展開も起こってくるのです。
理性が感情に負ける前に何とかしなければなりません。
・間違った仏法を説く罪
仏法は人間が助かるたった1本の道です。悪意があろうとなかろうと、仏法を間違える罪は重く、法謗の大罪です。むしろ、知らないで造る罪のほうが自覚がないためにブレーキが効かず、より重い罪悪を造ってしまいます。
仏法を説く責任は非常に重いものがあり、いい加減な気持ちでは務まりません。布教は命がけです。仏法を説く重みがわかれば、プレッシャーで押しつぶされそうになります。また、命がけになるような布教をしなければならず、だからこそ聴聞となり宿善となります。
廃立と隠顕
廃立の言い方と隠顕の言い方というのがあります。
利他心
布教は、人を幸せにするためにやるもので、特に相手の後生を心配してやるものです。
・遠仁
鬼は遠仁(おに)とも書かれ、これは仁に遠いということです。後生が地獄であることを知っていながら、人に教えようという気が無いというのは利他心がなく、遠仁の状態です。
これほど重要な布教をしないことは、善知識の恩を仇で返すような行為であり、仏敵・法敵です。涅槃経にあるように、「真実の利を求めて布教せざるは法に背き仏に怨をなすこと」なのです。
・相手目線
聖人君子ぶっていては人を救えません。たとえば、乞食や淫売婦を救う時は、自分も乞食や淫売婦の立場に立つことが大切です。上から見下すような接し方では布教できないのです。
人に何かプレゼントする時も、相手が欲しい物をあげるべきです。心を込めればいいというのではありません。だいたい、心が込もってもいません。極端な例を言えば、御馳走だからといって猫からネズミの死骸をプレゼントされてもまったく嬉しくないのです。
中村久子(詳しくは第4巻)の娘は、久子に手編みのチョッキを贈った時、「着にくいです。直して下さい」と叱られたといいます。3度送り返され、しかも「凄まじい怒り方」で、「こんな着にくいチョッキは要りません。貴方には相手の人のことを思って編むという心がない」「もう編んでくれなくても結構です」と叱られたそうです。それから色々考えて4回目の時に、久子は初めて次のように礼を言ってくれたといいます。
「今度のは着やすくて、心を込めて相手の身を思い計って、編んでくれた。貴方に厳しく言ったのは、人に物を差し上げるとき、ものをして上げるとき、相手の方が何を望んでいるか。何が一番大切かということを知ってほしかった」
普通の親なら子供から手編みのチョッキをもらったら、サイズが合わなかったりデザインが悪かったりしても喜んで着るでしょうが、久子はそうはしなかったのです。
石田三成の「三献茶」のような気配りが布教でも大切です
(三成が秀吉を三杯の茶でもてなした話。一杯目は大きな茶碗八分ほどにぬるく入れ、二杯目は半分ほどに少し熱く入れ、三杯目は小さな茶碗に少しばかりの茶を熱く濃く入れた。これに感心して秀吉は三成を家臣に加えたという)。
・気を遣っているように思わせず気を遣う
気を使っていることを相手にわからせないように気を使うという視点も大切です。
「落穂拾い」などの作品で知られるフランスの画家ミレーが、まだ無名だった時のことです。ミレーはストーブを燃やす薪も、妻子に食べさせる食べ物も満足にない極貧の生活をしていました。
ある日、哲学者のジャン・ジャック・ルソーが友人のミレーを訪ねてきました。
「実は、私の知人が君の絵のファンでね。1つ分けてもらえないだろうか」
こう言って、ルソーは懐から封筒を取り出しました。
「これは知人から預かってきた絵の代金だが、いくら入っているか私にもわからない。少なくても勘弁してくれないか」
「もちろん、いくらでもかまいません」
ルソーが帰った後、ミレーが期待せず封筒を開けてみると、当時の金で500フランもの大金が入っていました。ミレーは大変喜び、絵を買ってくれた人に深く感謝しました。
それから数年経って、ミレーはルソーの家をちょっとした用件で訪ねました。居間に案内されてみると、なんと目の前の壁に、その時に売った絵がかかっていました。ルソーの気遣いにミレーは言葉にならないほど感動したといいます。
・自己開示
こちらが相手を評価しているように、相手もこちらを評価しています。話を聞く価値があると思わせるためには、自分に関する情報を伝えることが大切です。
注意が必要なのは、自慢にならないように伝えることです。実際にどれほど実力があり、他人も認めるほど優れた人であっても、自慢や見栄は悪く見えるものです。
・モテる雰囲気
相手が話を聞きやすくするために、どちらかといったら、モテるような雰囲気を作ったほうが上手くいきます。
人は見た目が9割ともいわれているようですが、何割かは別として見た目は重要です。人間は形に影響を受けます。
俳優の唐沢寿明は、ファッションを変えただけで、それまでずっと落ち続けていたオーディションに受かり始めたといいます。面白かったら服装は何でもいいと思っていたそうですが、マネージャーからしつこく何回も私服をきっちりしたほうがいいと言われ変えたのだそうです。
聴診器を持つだけで医者の権威づけとなり、より素直に患者は言うことを聞くという実験もあります。
また、異性からモテるためには、「性」を知ることも重要ですが、それについては第8巻で説明しています。
・金持ちに見せる
特に金持ちそうに見せることが大切です。
「信は荘厳より生ず」といわれ、信は信心、荘厳は装飾のことです。身なりが貧乏臭いと、自分だけでなく、人にも悪い影響を与えます。たとえ、中身が釈迦であっても、ホームレスのようなボロボロの身なりだったら話が聞けないでしょう。
どんな人でも見た目に影響を受けているものです。
パティシエの大濱史生は次のような話をしています。
「私は、質の良い旬のフルーツを確保するために、地方の生産者の方を直接訪ねることがあります。そんな場合に、たとえその農家の生産者の方とは初対面でも、やはりベンツに乗っていくと、生産者の方の対応が他の車のときとまったく違うのです。ふらりと突然現れた私に、生産者の方は誠意を持って出迎えてくださるだけでなく、きちんと私の話に耳を傾けてくださり、少々無理なお願いや取引もその場で成立するのです」
・身を捨てる
利他をする時は自利を捨てなければなりません。
1人でも死の解決を求めて一生懸命求道する人がいるならば、その人のために身を捨てる覚悟で臨むべきです。たった1人の釈迦のような求道者を見つけるために、金も時間も肉体もすべて費やすということです。身を捨てる覚悟で布教をすると、結果として身を捨てることにならず、それどころか多くの自利があります。
「まことに、一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それは、すたらぬ」(御一代記聞書)
・勧誘する
人間が幸せになる真理(仏法)というのは、教えてもらわなければ、とてもわかるものではありません。善知識と呼ばれるような天才でさえ先生にあたる人がいます。自力でわかったのは、後にも先にも釈迦だけです(正確には釈迦にも先生がいます)。真実の仏教を知った人間以外、誰にも救うことはできません。そして、真実の仏教に出遇うことは非常に難しいことです。科学は人生の根本問題に無力ですし、宗教はおかしいものばかりで、仏教も間違った仏教で溢れています。ですので、知っている人は、相手がどれほど年上であっても、積極的に教えてあげなければなりません。
第1巻で見たように、すべての人は無意識に真実の幸福を求めています。表面的には人間は各々異なった関心を抱いているように見えますが、もっと内面に目を向けると同じ目的に向かっています。すべての生物は、いつかは求道する運命にあります。ですので、早く教えてあげたほうがいいのです。これを「宗教の勧誘」というなら、宗教の勧誘を一生懸命するということになります。
・「大人しい」は悪
世の中、悪だらけなのですから当然、怒りがでます。その怒りが布教の原動力となります。仏教があれば防ぐことができたはずだからです。
第4巻でも説明しましたが、大人しい人というのは、悪に鈍感でいい加減な危険人物です。大人しくしていては、仕事をしっかりこなすこともできません。大人しくするのは楽ですが、我利我利の行為です。もちろん、大人しい仏教者はあり得ません。大人しくしている間に、悪も邪教も蔓延してしまいます。哲学者のフランシス・ベーコンが言ったように、「沈黙は愚者たちの美徳」なのです。
・無力感を感じる
人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、人の喜びを自分の喜びとして受け止めるのは当然です。
世の中を見渡せば苦しんでいる人で溢れています。そういう人たちを救えていないのは事実ですので、この点だけでも無力感を感じるには十分です。自分の子供が苦しめば自分も苦しくなります。自分の子供を守れなかったら無力感を感じます。
無力感を感じていないということは、利他心がないということであり恥ずかしいことなのです。「人生が楽しいところ」とか「苦しみは耐えられる」などと思っている人にも同じことがいえます。
マッチング
教学がないため心を的確に言葉で表現できず、漠然とした悩みを抱えている人がほとんどです。釈迦のような人でも最初は同じです。そういった人と仏法の両者をマッチングさせることが布教になります。
・対機説法
相手の機(能力や性質)に応じて法を説くことが大切です。これを対機説法といい、応病与薬ともいいます。
・方便
人間は迷い深いので、いきなり真実を説いたところで、すんなりと理解できる人はまずいません。真実に近づけるために、その人の機に合わせて様々な方便が使われるのです。
・多様なコミュニケーション方法
仏教用語を使うだけが、真実を伝える方法ではありません。仏語は便利ですが、仏語に対する偏見は根深く、仏語を聞くだけで拒絶反応を示す人もいるので、そういう人には科学用語に変換したり、相手が受け入れやすい方法に変えるという視点も大切です。
また、人と対面してしゃべることが基本ですが、それだけではありません。現代には、本や電話、インターネット等々、情報を伝達する手段が様々あります。
・わかりやすくする
相手に伝わらなければ意味がありません。わかりやすくすることが大切です。
英国の文豪、サマセット・モームは晩年、一番嬉しかったことは何かと聞かれて、「戦場の兵士から、『あなたの小説は一度も辞書を引かずに読めた』と手紙をもらったときだ」と答えたそうです。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチは、「簡潔さは究極の洗練である」と言い、アインシュタインは「簡にして要の説明ができないのは、十分に理解できていないからだ」と言いました。
・考えさせる
仏教では、大疑団といって大きな疑いの塊が生まれるような学び方が推奨されます。世間と違う話をしているのですから、真面目に聞けば必ず疑問が生まれます。疑問が生まれないということは真面目に聞いていないということです。考えさせるような話をすることが大切です。
・真実を伝える
真実の言葉は日を追うごとに重くなっていきますが、嘘の言葉は日を追うごとに薄っぺらくなり、力がなくなっていきます。最初は理解されなくとも、必ず影響は受けており頭の片隅にはあるので、生活する中で徐々に重みが増し、これまで気づかなかったことに気づく可能性があります。
ですので、理解されなくとも真実を伝えようという心がけが大切です。理解されないことを恐れて嘘を言っても意味がないのです。
・要を伝える
経典は膨大ですが、全部知る必要があるかというとそうではなく、「要」があります。その要を、歴代の善知識同様、私も微力ながら本にまとめているのです。
・与奪の論法
布教する時は、「与奪の論法」を意識すべきで、相手が初心者であれば特に大切です。
与奪の論法とは、簡単に言うと、「7つ褒めて1つ叱る」というようなものです。相手を褒めるといった諸々のことを相手に与える、これが与奪の与にあたります。その上で、仏教はこういう教えであるという言い方をすれば、奪うことが魅力になります。世間の人間は根底から間違っているわけですが、だからといって全部否定しては気を悪くして聞かなくなるのです。
・褒める
名誉欲は活かし方次第では悪いものではありません。どんな人にもいい面があるので、それを褒めるのです。特に男には有効です。
「報酬だけで人を動かそうとするのではなく、栄誉と賞賛を与えることで従業員をモチベートする方法を取り入れるべき」
「目標達成者には報酬ではなく栄誉と賞賛を」(稲盛和夫)
・バランス
人間は偏見を持ちやすいやすいので、自分の考え方のクセを知り、自己を知って偏らないように努めるべきです。
「この人はこういう性格」といったカテゴリで括れない人が、バランスが取れた人です。
「あるときには冷酷なまでに厳しく、あるときには仏のごとき人情味あふれる態度を示すこと。相反する両極端をあわせ持ち、局面によって正常に使い分けられる人格が、バランスのとれた人間性なのです」(稲盛和夫)
・マーケティング
布教はマーケティングや営業と似ているところがあります。釈迦のような宿善のある求道者を見つけるために(目標設定)、仏法(商品)を、相手の機に合わせて(ターゲット分析)、伝えていくのです。ですので、世に数多ある営業ノウハウ等も、布教に活かすことができます。たとえば、ある会社の営業マニュアルは次の3つの”戦陣訓”を掲げています。
1.お世辞はよく切れる刃物である
2.販売は断られたときから始まる
3.誠実は最良の販売策である
・人の心を知る
言うまでもなく、相手の心がわからないと対機説法はできません。
・伝わりにくい
一人一人違う世界に生きており、伝える側の主観や偏見がどうしても入ります。さらに伝える側の主観だけでなく、伝えられる側の主観も入るため、事実を伝えるということは難しいことです。
心理学者のゴードン・オールポートによれば、「あるメッセージが人から人へと伝えられていくとき、そのメッセージが字義どおりに伝えられることはほとんどない」といいます。
自分が思うよりも相手に伝わっていないと思い、相手を理解できるよう努め、一器の水を一器にうつすように仏法を伝えようと心がけるべきです。
・つかず離れず
話す
様々なコミュニケーション法がありますが、特に「会話」が重要です。
努力
真実をわからせるには根気がいります。
・絶望的なこと
釈迦は悟りを開いても、すぐに布教しようとは思いませんでした。悟った内容が、あまりに深遠なものであるため、説いたところで誰も理解できないだろうと思ったのです。周囲から説得され何週間も深く悩んだ末に、ようやく布教することを決意したと伝わっています。凡夫に真実をわからせるというのは、鉄板の上に種をまくような、途方もなく労力のかかる作業であり、絶望的に難しいことなのです。
・コツコツと種をまく
しかし、不可能なことでもありません。派手なことをやろうとせず、「目の前の人をコツコツ布教する」という姿勢が大切です。
中国は唐の時代のことです。
日本からの依頼に応え、中国から仏教の指導者を派遣することになりました。しかし、日本へ行くには荒波を越えねばならず、千に一つも成功しないことを聞いていたため、誰も行こうとはしませんでした。
皆が黙って下を向く中、律宗の開祖、鑑真が渡航を決意します。聞いていた通り、渡航は想像を絶する難行でした。嵐に遭ったり海賊に襲われたりして5度失敗し、その間に多くの者が死にました。鑑真自身も失明しましたが、それでも諦めることなく、6度目の挑戦で日本上陸に成功しました。鑑真が66歳の時のことで、決意してから12年が経っていました。
聖道方便の仏教とはいえ、鑑真の弘法の精神は見習うべきものがあります。
今日どれぐらい布教したかと反省すると、ほとんどしていないはずです。宿善をドブに捨てているということであり、命を無駄にしているということです。
・飢え死ぬ覚悟
強い信念がないと、布教しようとしたのに逆に説き伏せられてしまいます。父母恩重経には、子が親に仏教を伝えるにあたり、次のように飢え死ぬ覚悟で臨むべきであると説かれています。
「子はまさに極諌して、これを敬悟せしむべし」
(訳:子はまさに言葉を言い尽くして強く諫め、仏道へ導くべきである)
「もしなお闇くして、いまだ悟ること能わざれば、すなわち、ために譬えとり、類をひき、因果の道理を述べ説きて、未来の苦患を救うべし」
(訳:強く諫めても、まだ親が自身の間違いに気づくことができず求道しなければ、たとえを用いたり世間の様々な事例を示したりし、因果の道理を説いて、未来の苦悩から救うべきである)
「もしなお頑なにして、未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷して、己が飲食を絶つべし。親頑闇なりと雖も、子の死なんことを懼るるが故に、恩愛の情に牽かれて、強いて忍びて道に向かわん」
(訳:それでも、なお頑なに改めることができなければ、声をあげて泣き、飲食を絶つべきである。頑なな親であっても、子供が死んでしまうことを恐れ、恩愛の情にひかれて、強く忍耐して求道するだろう)
求道者は皆、これぐらいのことをする覚悟で臨まなければなりません。
・成果を求める
常に成果を求めて工夫し続ける必要があります。ただの自己満足で終わっては求道になりません。
・名医は1日にしてならず
いきなり名医にはなれません。最初は誰でも初心者で、そこから訓練して名医になっていきます。
「人を幸せに導くなんて大それた事はできない」とか「まだ若いから年上を説得できない」などと言っていたら、いつまでたっても布教できるようになれません。何より宿善を積む機会を失っています。布教と勉強を同時に進めるべきです。
・裏切りの連続
布教というのは裏切りの連続です。自分にも人にも裏切られますが、それを知るために布教するといってもいいくらいです。
嫌われる覚悟
本当のことを言って好かれればいいですが、現実はそうはいきません。どうしても嫌われる覚悟が必要になります。
・本当の味方とは
また、味方にも注意が必要で、多くの場合、大した味方ではありません。なぜなら、大して知らずに軽い気持ちで褒めているからです。そういう人は長続きしません。
ですので、「本当の味方」はもっともっと少ないです。「本当の味方」とは、突き詰めれば先に説明した通り、死の解決まで求め切る人であり、そういう人を1人でも見つけることができれば布教は大成功です。
「一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり、威の大なることにてはなく候う。一人なりとも、人の信を取るが、一宗の繁昌に候う」(御一代記聞書)
(訳:一宗の繁盛というのは、人が多く集まり、強い勢いがあるということではない。たとえ一人であっても、その人が死の解決をしていれば、一宗の繁盛なのだ)
死の解決
死の解決をするまで、仏法に対して1円の価値も感じていないのが人間の本性です。
・中身がスカスカ
肝心の死の解決の体験がないため、どんなに教学があろうが心を込めようが、信前の布教は中身がスカスカの形だけの布教です。真に中身のある説法は、死の解決をしないとできません。
・死がある限り信念を貫けない
第3巻で説明した通り、どんなに強い信念を持っていても、死がある限り貫き通すことができません。本物の死の恐怖を前にすれば一瞬で折れてしまいます。「死を突きつけられても信念を貫ける」などと思っていたら、それは自惚れです。死を解決しない限り、真に自由な活動はできないのです。
死の解決をすれば、死の恐れも誹謗中傷の恐れもなく、信念を貫くことができ、自由に布教することができます。
死の解決をすれば金剛心となります。金剛とは仏教用語で、絶対に崩れない、壊れないという意味です。ダイヤモンドのことを金剛石といいますが、ダイヤモンドは非常に硬いために、こう名づけられています。
「信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛の如くなるが故に、金剛の信心と言うなり」(唯信鈔文意)
(訳:信心が破れず、傾かず、乱れないこと、金剛のようであるので金剛の信心と言うのである)
金剛心は、どんな非難を受けようが微動だにしません。
「如何なる人来りて言い妨ぐとも、少しも変わらざる心を金剛心という」(後世物語聞書)
(訳:どんな人がやって来て言い妨げようとも、少しも変わらない心を金剛心というのである)
・人を導くのは難中の難
自分が死の解決をし、さらに人を死の解決に導くということほど難しいことはありません。
「自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更に難し」(往生礼讃)
(訳:自分が信じ、人に教えて信じさせることは、難の中の更に難である)
・本当の恩返し
しかし、それこそが仏の恩に報いる本当の恩返しとなるのです。
「大悲、弘く普く化すること、真に仏恩を報ずるに成す」(往生礼讃)
(訳:仏教を伝え、人を救うことが真に仏の恩に報いることになるのである)