南無阿弥陀仏とは
「なむあみだぶつ」と読み、「南無阿弥陀仏」を六字の名号といいます。
阿弥陀仏とは
南無とは
「南無」とはサンスクリット語の「ナマス」に漢字をあてたもので、中国語では「帰命」、日本語では「信ずる」という意味です。ですので、南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏を信ずる」という意味になります。
薬
すべての人間は、無明業障の恐ろしき病を患っています。
南無阿弥陀仏の六字は、その病を治すために阿弥陀仏が作られた薬です。
・無上の功徳
一見するとただの6文字に見えますが、絶大な力が封じ込められた宝なのです。
「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにその極まりなきものなり」(御文)
(訳:南無阿弥陀仏という文字は、その数がわずかに六字なので、それほど効能があるように見えないだろうが、この六字の名号の中には、この上ない功徳利益が収まっており、その広大さは極まりないものである)
しかし、人間には「豚に真珠」「猫に小判」で、その価値がわかりません。
・願行具足
この薬には、次の願と行が備わっているため、願行具足の南無阿弥陀仏ともいいます。
願:薬の設計図を作成すること。五劫の間、思惟して作られたので、五劫思惟の願ともいう
行:設計図に沿って薬を完成すること。兆載永劫のあいだ修行して完成したので、兆載永劫の行ともいう
・仏心
南無阿弥陀仏には、仏心が封じ込められており、その思いを知ることが大切です。
「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしくしりたるが、すなわち他力信心のすがたなり」(御文)
(訳:南無阿弥陀仏の六字の御心は、つまり他力信心の姿なのである)
本来、願いを起こし、その願い通りに実行することは、助かりたい側である人間がやるべき仕事ですが、人間は正しい願いを起こすことさえできません。「願いぐらい起こせる!」と思うかもしれませんが、人間が起こす願いは間違ったものです。願も行もすべて阿弥陀仏が用意してくださったということです。
・大医王
阿弥陀仏は無明の病を治す医者であるため、大医王とも呼ばれます。
「仏は是医王、法は是良薬、僧は是瞻病人なり。無明の病を除きて、正見の眼を開き、本覚の道を示して浄土に引摂せんこと、仏・法・僧に如くは無し」(智度論)
(訳:阿弥陀仏は医王、仏法は良薬、善知識は看病人である。無明の病を除いて、正見の眼を開き、本覚の道を示して浄土に導くために、阿弥陀仏・仏法・善知識の三宝に及ぶものはない)
妙好人として知られる小川仲造は、「無間地獄の借用は、六字のお金ですめたとや、おもいがけない、おじひさま」という言葉を残しています。
ちなみに福来は、肉身を超越した境地には「信心によってできる」と言います。そしてそれは、釈迦のような超人だけでなく、信心の力によって「煩悩具足の凡夫のままで」できると言い、例として「阿弥陀仏の本願」を挙げています。
「阿弥陀如来が四十八の大願を立て、摂取不捨の御手を挙げて一切衆生を招き給うも、この意味にほかならぬ」
「われらは下根劣慧の凡夫にして神通を表し得ないけれど、仏のほうに不思議の神通があるから、われらは自力によって肉身を超越して仏の神秘世界に行くことができなくとも、われらに信心の誠さえあれば、仏のほうからわれらの心に通い給うのである。すなわちわれらの信心と仏の神通とによって、われらの心は肉身に閉じ込められておりながら、仏の心と感応し得るのである。この不思議の事実が宗教の本質である。そうして、この事実を最も適切に表示したものが、南無阿弥陀仏の六字であろう」(福来)
経典には南無阿弥陀仏と書いている
膨大な経典は、要約すれば南無阿弥陀仏の六字が書かれてあるといえます。
「一代聖教みな尽きて 南無阿弥陀仏に成り果てぬ」(一遍/辞世の句)
(訳:すべての聖教は、約めれば「南無阿弥陀仏」が書かれているのである)
「一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりと思うべきものなり」(御文)
(訳:すべての聖教は、南無阿弥陀仏の六字を信じさせるためにあるのだ)
・南無阿弥陀仏と一体になる
死の解決をするということは、南無阿弥陀仏と一体になるということです。
「信心決定せん人は、身も南無阿弥陀仏、心も南無阿弥陀仏なりと思ふべきなり」(安心決定鈔)
(訳:死の解決をした人は、身も心も南無阿弥陀仏だと思うべきである)
十劫安心の異安心
「十劫ものはるか昔に阿弥陀仏は助けてくれたので、何もしなくても助かる」と思っている人たちがいます。これを十劫安心の異安心といいますが、この人たちは、名号が完成したことを助かったと勘違いしているのです。名号が完成しても、その名号を聞法によって頂かないと救われません。
聴と聞
求道は、聴聞の一本道ですが、聴聞は、正確には「聴」と「聞」に分けられます。
・聴とは
「聴」は、「自分から出て聴く」ということであり、法座で善知識の説法を聴くことを指します。ですので、正確には「聴聞に行ってくる」ではなく「聴に行ってくる」というのが正しいのです。
・聞とは
「聞」は、「向こうから聞こえてくる」ということであり、阿弥陀仏の呼び声を聞くことを指します。「南無阿弥陀仏」の六字の名号を賜り、阿頼耶識に阿弥陀仏の呼び声を聞信させることをいい、これを「聞即信の一念の体験」ともいいます。
「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。当に知るべし」(大無量寿経)
感覚器官を介さずにコミュニケーションが取れる可能性があることは第1巻でもみました。阿弥陀仏の声は声なき声です。
・名号を聞くことを勧める
このため、釈迦は名号を聞くことを勧めています。
「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」(阿弥陀経)
(訳:六字の名号を聞き、その名号を心に留めよ)
「汝好くこの語を持て。この語を持てとは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」(観無量寿経)
(訳:よくこの言葉を心に留めなさい。この言葉を心に留めるとは、つまり阿弥陀仏の名号を心に留めるということである)
「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん」(大無量寿経)
(訳:阿弥陀仏の名号を聞き死の解決をすれば、躍り上がるような喜びを得る)
・意識から阿頼耶識へ
阿頼耶識は、人間の最も深い深層心理であるため、いきなり聞かせることはできません。ですので、まずは浅い心である意識(頭)から入って「聴」を繰り返し、最終的には深い心である阿頼耶識(腹底)に「聞」と聞かせるという流れを辿る必要があります。電波が流れても周波数が合わなければテレビやラジオが流れないように、「聴」を繰り返すことで阿弥陀仏が流す念力を受け取れるように心を調整し、周波数が合った瞬間に「聞」と聞くことができます。ですので正確には、仏教は「聴」で始まり「聞」で終わるということになります。
本尊と名号
本尊とは、「根本に尊ぶべきもの」という意味です。
阿弥陀仏だけに向かう
仏教は、阿弥陀仏一仏を本尊とします。
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)
(書き下し:一向に専ら無量寿仏を念ずべし)
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
(訳:一向専念無量寿仏の教えは、仏教の要である)
「肝に銘じる」とか「腑に落ちる」などといわれるように、肝腑は要という意味であり骨目も同じです。
「一心一向というは、阿弥陀仏において二仏を並べざる心なり。この故に、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいわく、『忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず』といえり」(御文)
(訳:一心一向というのは、阿弥陀仏以外の仏を並べない心である。人間関係においても、一人の主人だけに仕えるのが道理であり、「史記」の言葉の中にも、「忠臣は二人の君主に仕えない、貞女は二人の夫を持たない」と書かれているのである)
「今の行者、あやまりて脇士に仕うることなかれ、ただちに本仏をあおぐべし」(御伝鈔)
(訳:求道者は、誤って阿弥陀仏以外の菩薩や諸仏を本尊としてはならない。ただちに阿弥陀仏を仰ぐべきである)
仏教は、一切の脇士や脇掛を許しておらず、阿弥陀仏一仏に向かいます。本尊の左右両脇に侍しているものを脇士といいます。阿弥陀仏の脇士は、観音菩薩と勢至菩薩です。勢至菩薩は、阿弥陀仏の智恵の象徴です。観音菩薩は、阿弥陀仏の慈悲の象徴です。たとえば千手観音が有名ですが、たくさんの手は空間的な無限大を表し、あらゆる衆生を助ける心を表しています。象徴化する意味は、ハトが平和の象徴であるように、形がなくわかりにくい阿弥陀仏の実態をわかりやすくするためです。
ちなみに釈迦の脇士は文殊菩薩と普賢菩薩になります。文殊菩薩は、釈迦の智恵の象徴です。「三人寄れば文殊の知恵」という諺にもなっています。普賢菩薩は、釈迦の慈悲の象徴です。
・常に心にかける
聴聞や開顕、勤行といったことはもちろんのこと、どんな時でも阿弥陀仏に心を掛けるということです。
田舎から江戸に出てきた男が、スリにあったと大岡越前守に訴えました。
「そうか、しっかりかけていたか?」
大岡越前守が尋ねると男は、「はい、首にしっかりとかけていたのに取られてしまいました」と答えました。
それを聞いた大岡越前守は、「それではダメだ。心にしっかりとかけなければこの江戸では取られてしまう。以後、心にかけられよ」と言ったといいます。
阿弥陀仏も、しっかり身につけるだけでは不十分で、しっかり心にかける必要があります。
・一向宗
阿弥陀仏だけに向かうために一向宗といわれたりしますが、これはこちら側から名づけたものではありません。周りにそう言わしめるぐらい阿弥陀仏一仏に向かっているということです。
「一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりと知るべし」(御文)
(訳:一向宗という名言は、本宗から言い出したことではないと知るべきである)
・阿弥陀仏に向かわなければ助からない
阿弥陀仏一仏に向かわなければ救われないから、これほど強調するのです。
「皆々心を一つにして、阿弥陀如来を深くたのみたてまつるべし。その他には、いずれの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからずとおもうべし」(御文)
(訳:阿弥陀仏一仏だけを深く信じなさい。それ以外は、どんな法を信じようとも、後生が助かるということは絶対にない)
蓮如一期記には、「位牌、卒塔婆をたつるは輪廻する者のすることなり」とも説かれています。
庄松が、ある仏教徒の家へ行った時のことです。
あろうことか家には神棚が飾ってありました。それを見るや庄松は、「間男見つけたり!間男見つけたり!」と叫びました。すると家の主人は、「娘が病気になって藁にもすがる思いだったんだ。許してくれ、許してくれ」と泣きながら言ったといいます。
・阿弥陀仏以外は捨てる
阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神々には人間を救う力がないため、すべて捨てます。
「あまた、御流に背き候う本尊以下、御風呂の度毎に、焼かせられ候う」(御一代記聞書)
(訳:阿弥陀仏以外の本尊等は、火を起こすたびに焼いた)
名号を本尊にする
本尊というと、木像や絵像などを思い浮かべるかもしれませんが、南無阿弥陀仏の六字の名号が正しい本尊です。これは、「名号を聞く1つで救われる」という本願成就文に由来します。
・名号は形にとらわれにくい
木像や絵像は感情が刺激されやすく、形にとらわれてしまい、阿弥陀仏の姿を正しく認識できなくなるという欠点があるため、名号を本尊とします。
「木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」(御一代記聞書)
(訳:木像より絵像、絵像より名号が本尊としてふさわしいのである)
・破壊と創造の繰り返し
どうしても名号を通して形のある阿弥陀仏、特に擬人化した阿弥陀仏を想像してしまいますが、どんな阿弥陀仏を思い浮かべても間違いです。
聴聞しては間違った信じ方をしていたことに気づき(破壊)、そしてまた新しい信じ方をし(創造)、という具合に信仰というのは破壊と創造の繰り返しであり、そうして求道は進んでいきます。
・理想の本尊
名号そのものの価値は変わりませんが、善知識と阿弥陀仏の関係から、自分が尊敬する善知識が書いた名号が理想的で、信仰が進みやすくなります。
本尊を安置する場所
本尊は、唯一の救い主である阿弥陀仏そのものであるため疎かにできません。安置する場所が必要です。
・仏壇
仏壇は阿弥陀仏を安置する家です。ですので、求道者はもちろん、仏教を尊く思う者であれば仏壇は必要不可欠です。本尊の扱いにはくれぐれも注意し、火事が起きた時でもすぐに持ち出せるようにしておきます。
・携帯用
ペンダントにしたり、携帯して身につけることも尊い行為となります。基本的に、寝る時を含め、入浴時以外は常に身につけてもいいものですが、疎かにしないよう注意しなければなりません。
数珠
阿弥陀仏を礼拝する時は必ず数珠を持ちます。
「数珠の一連をも持つ人なし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり」(御文)
(訳:数珠を持たずに阿弥陀仏に向かうことは、阿弥陀仏を素手で掴むようなものである)
仏凡一体
仏心(仏の心)と凡心(凡夫の心)が一体となった状態を仏凡一体といいます。死の解決をすることで、仏凡一体の身となります。
「行者の悪き心を如来のよき御心と同じものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり」(御文)
(訳:阿弥陀仏の本願力は、人間の悪い心を仏の良い心と同じものにさせる。こういうことなので、仏心と凡心が一体になるというのである)
・合体とは違う
一体とは、合体とは違い分離することができません。たとえば、合体とはサンドウィッチのようなもので、パンと具を分離することができます。一体は炭についた火のようなもので、炭と火を分離することはできません。
このように、仏凡一体とは慈悲の欠片もない冷たい凡夫の心と、仏の温かい心が一体となり、分離できない状態となります。
「仏心は我等を愍念したまうこと骨髄にとおりて、染みつきたまえり。たとえば、火の炭に、おこり着きたるがごとし。離たんとするとも離るべからず。摂取の心光、我等を照らして、身より髄に徹る。心は三毒煩悩の心までも仏の功徳の染み着かぬところはなし」(安心決定鈔)
(訳:仏心は骨の髄まで徹底して染みつく。たとえば、炭に火がついたようなもので、炭と火を別々にしようと思ってもできない。煩悩に至るまで仏心の功徳が染みつくのである)
・阿弥陀仏と一体
仏凡一体は、弥陀同体ともいいます。
心に阿弥陀仏が生じるということであり、阿弥陀仏と一体になるということです。至徳具足の益ともいいます。至徳とは南無阿弥陀仏のことです。
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」(西方指南抄)
「才市臨終すんで 葬式すんで 南無阿弥陀仏と此世にはいる 才市は阿弥陀なり 阿弥陀は才市なり」(浅原才市)
「頭叩いても南無阿弥陀仏、手を叩いても南無阿弥陀仏、足を叩いても南無阿弥陀仏、お尻叩いても南無阿弥陀仏、座った姿も南無阿弥陀仏なら立った姿も南無阿弥陀仏、歩く姿も南無阿弥陀仏、本願や行者、行者や本願」(おかる)
ある時、一休が虫干会にやってきました。虫干しとは、カビや虫の害を防ぐために、本尊や聖教などを日に干したり風にあてたりすることです。
「わしの一切経も、だいぶ汗をかいたから風をあてよう」
こう言って一休は寝そべりました。
それを見つけた寺の者が「こんなところで寝られると迷惑です」と言うと、一休は「生きた一切経だから虫干してるのだ」と答えたといいます。
一休が「生きた一切経」であるかどうかは別として、仏凡一体の境地を上手く表現しています。