仏教では聴聞がいかに重要かはこちらで説明しました。
聴聞といっても真剣に聞けば大きな宿善となりますが、真剣に聞かなければ大した宿善にはなりません。もっと言えば、真剣に求めること自体が聴聞になり宿善になります。
たとえば、山本良助の場合、必死で善知識を求めること自体が聴聞になっていたといえます。
彼を導いた庄松は教授の善知識とはいえません。
東条英機についても同じことがいえます。
死刑が間近に迫り、真剣に求めたこと自体が聴聞になっていたといえます。東条に仏教を教えた人は花山信勝という人で、私も彼の著書や講演(録音)を聞きましたが、「あの話で東条はよく死の解決ができたな」と思えるような内容です。生きた教授の善知識に遇えなかったにもかかわらず求め切ることができたのは、必死だったからでしょう。
「真剣」というのは、これほど重要なことですが、どれくらい真剣に聞けばいいのか、それがわかる表現をいくつか挙げます。
・目を凝らす
目をパチパチしたりするのは、まだ真剣ではありません。
・音が聞こえない
集中すると、周りの音は聞こえなくなります。
・身じろぎしない
集中すれば身じろぎもしません。
江戸時代、浄土真宗本願寺派の第4代能化、法霖が若い時のことです。
友人たちが法霖を誘って遊びに行こうとしました。しかし、読書中だった法霖は「今忙しいから先に行っててくれ」と断りました。
「それならこの帽子をかぶって後からこい」
こう言って友人は法霖の頭に帽子を横にかぶせました。
しばらくして夕方になり、友人たちが遊び疲れて帰ってきました。友人たちは、部屋の中を見て驚きました。薄暗くなった中で、法霖が出かける前と同じ姿勢で、帽子も横にかぶさったまま読書していたのです。
この時の法霖のような集中力が理想です。
・すぐ思い出せる
真剣に聞いたことは簡単に思い出すことができます。
ちなみに、真剣に聞けるよう、法座中はメモを取るのは禁止になっています。
・耳をそばだてる
「よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし」(御文)
ひそひそ話や噂話を聞いている時などは、耳をそばだてるようにして聞きます。嫌々、聞こう聞こうと努力している状態は真剣ではなく、つい聞いてしまうという聞き方が集中して聞いている状態です。
・殺気が出る
殺気が出るぐらい真剣になる必要があります。
殺気は実在します。釈迦が近くにいたら、隠れていてもすぐわかるはずです。そこにいたら怖くてとても話はできません。
「気」「祈り(遠隔治療)」「思念の記憶」DMILS(Direct Mental Interaction with Living Systems 生体系との直接的心的相互作用)
・遊んでいる時
楽しく遊んでいる時は真剣です。
・煩悩を満たしている時
欲を満たしたり、怒ったり、愚痴を言ったり、と煩悩を満たしている時は真剣です。
・初めて聞いた時
初めは新鮮で真剣に聞きやすいですが、何度も聞いていると新鮮さがなくなり違う話を聞きたくなります。山口善太郎は、「御座を重ねて聞くものの 聞いたばかりじゃ味がない」と表現しました。これは知識欲で聞いているからであり、頭だけで聞いているからですが、いつも初めて聞くような聞き方をすべきです。
「一つことを聞きて、いつも珍しく、初めたる様に信の上には有るべきなり。ただ珍しきことを聞き度く思うなり。一つことを、幾度聴聞申すとも、珍しく、はじめたるようにあるべきなり」(御一代記聞書)
「いつも来る いつもの人が いつもする いつもの話 いつも尊い」という古歌もあります。
・飢えた時
飢えている時は、飢えを満たすことしか考えず真剣です。
「聴くものは端視して渇飲の如くせよ」(智度論)
(訳:法を聴くものはひたすら心を傾け、喉が渇いた人が水を飲むが如くせよ)
・痛みを感じない
良いか悪いかは別として、集中すると痛みや苦しみを感じません。たとえば、戦場で負傷した兵士が、戦闘が終わるまで激しい痛みを感じなかったとか、スポーツの試合中、骨折していたことに気づかなかったといった話は多くあります。
釈迦十大弟子の1人、阿難には次のようなエピソードがあります。
ある時、阿難は背中に腫れものができ、大変苦しんだことがありました。名医の耆婆が診たところ、腫れものを切り取るしかなく、その痛みは壮絶なものになると言いました。
そこで釈迦は、聴聞中に手術するよう耆婆に指示しました。阿難は普段から一心不乱に聴聞し、一度聞いた説法は一言半句忘れることがありませんでした。そのことを知っていたので、聴聞中なら痛みなく手術できるだろうと釈迦は考えたのです。耆婆がその通りにしたところ、阿難は手術したことに少しも気づかなかったといいます。
正座が痛いなどと言っているのは、集中していないからです。
・衣食を忘れる
必死になると衣食に心はかかりません。
時折、ラブホテルが火事になるというニュースが出ますが、その時、裸のまま逃げてくる人がいます。命の危険が迫り必死になれば、裸の恥ずかしさなど問題にならないということです。
念のため言いますと、必死になった結果として身だしなみを忘れるのであって、身だしなみを気にするなということではありません。ボロボロの服を着て聴聞すればいいのかというとそうではないのです。他のことにもいえますが、「鵜の真似をする烏」となってはなりません。
・聞くなと言われても聞く
人から聞け聞けと尻を叩かれてようやく聞くような聞き方は、真剣な聞き方ではありません。「聞くな」「諦めろ」と言われても聞こうとする聞き方が真剣な聞き方です。
・火をかき分ける
最終的には、火の中をかき分ける真剣さが要求されます。
「設ひ世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要(もと)めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じ、広く生死の流れを度すべし」(大無量寿経)
(訳:たとえ世界中が火で満たされても、命がけで求め続ければ、必ず仏の悟りを開き、すべての生物を救うだろう)
「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(浄土和讃)
(訳:たとえ大宇宙が火で満たされても、命がけで求める人は、必ず死の解決をして正定聚不退転の位となる)
「火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」という古歌もあります。
自分が猛火に囲まれたら、火をかき分けてでも助かろうとするでしょう。自分の子供が火の中に取り残されていたら、火をかき分けてでも助けようとするでしょう。助かる見込みがなくても、そうするしかなくなります。
これぐらい真剣な聴聞ができるようになるには、何度も何度も聴聞を繰り返す必要があります。
真剣に聞くというのは難しいことです。そのため、針を刺して聞いたり、昔から求道者は真剣になるために血のにじむ努力をしていたのです。稲盛和夫は、「絶え間ない創意工夫が、すばらしい成果を生む」と言っていますが、何をしたら真剣になれるのか、常に考えるべきです。