人間は愛を求めている
「人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ」(田山花袋/小説家)
周知の通り、望まない孤独は健康に深刻な害を与える万病のもとです。
孤独のリスクについて、心理学者のジュリアン・ホルトランスタッド(ブリガムヤング大学教授)は、「一日タバコ15本吸うことに匹敵、アルコール依存症であることに匹敵、運動をしないことよりも高い、肥満の2倍高い」と言います。
2018年にイギリスが孤独担当大臣を設置したことも有名な話です。日本でも新型コロナの影響で2021年に設置されました。
・愛で孤独を消そうとする
その孤独感を何とかするため、意識するとしないとにかかわらず、人間は愛を求めています。
2010年、米国の研究者たちは、30万8000人以上を追跡した148件の研究を分析し、強い社会的な絆がなければ、あらゆる原因による死のリスクが2倍になるという結論を出しています。
腫瘍内科学領域の研究者であるケリー・ターナーは次のように言います。
「人とのつながりは免疫システムの強化を促します。そして孤独感は、人を静かに死に至らしめる『殺人犯』にもなりうるのです。孤独を感じている人にとっては、その解消のため何かをはじめることは、菜食や定期的な運動と同じくらい健康のために重要なのです」
心臓病の権威であるディーン・オーニッシュ(カリフォルニア大学医学部臨床教授)は著書「愛は寿命をのばす」の中で次のように語っています。
「社会的に孤立した者は人間的な絆やコミュニティのつながりをもっている者に比べて、あらゆる原因による早死にの危険性が少なくとも2倍から5倍、高かったのである」
「強い社会的絆をもっている者は、病気に罹る率も早死にする率も、ひとりぼっちで孤独な者よりもずっと低かった」
「愛情豊かな人間関係は、生物学的にみても必要であることが、心臓に明らかに反映されていて、この必要を満たすことができなければ、健康は重大な危機に陥る」
1930年代の後半に入学した268人の男子学生を現在に至るまで追跡している「ハーバードメン研究」というのがあります。70年以上追跡調査している心理学者のジョージ・バイヤンは、幸せで豊かな暮らしをしている人とそうでない人の違いについて、「研究によって得られた発見を一言で言えば『愛』に尽きる」と言い、「70年間に及ぶ研究の結果、周囲の人との関係が何にもまして重要であることが実証された」と言います。
心理学者のエド・ディーナーらは、幸福に関するここ20年ほどの異文化を含めた膨大な量の研究を調べた結果、「人が生き生きと暮らすためには、食物や空気と同様に、他者とのつながりが欠かせない」と結論づけています。
ハーバード大学の生物学者でノーベル生理学・医学賞を受賞したジョージ・ウォルドは、「本当に必要なのは、ノーベル賞じゃなくて愛です。どうやってノーベル賞受賞者になると思いますか?愛がほしいからですよ。愛がほしいから、夜も昼も働いて、そのあげくにノーベル賞を受賞するんです。残念賞ですね。大事なのは愛なんです」と言いました。
インスタ偽造を告白したモデルの西上まなみは次のように語り、嘘の上塗りを重ねてしまったといいます。
「本当は独りぼっちなのに、仲良しのお友達とランチしているように見せたい。それで、2人分のお洒落な食事をカフェで頼んで何度も投稿していました。けれど、1人で全部のご飯を黙々と食べている時が辛いというか、すごく虚しい気持ちになって・・・・」
このように人間は孤独に弱く愛に飢えているので、それにつけこんだ広告戦略は至る所でとられています。
「現代社会は、安らぎも喜びも幸せもどこか自分の外側にあるという考え方を、手を替え品を替えて教え込んでいる。
広告産業も、この考え方で成り立っている。『この商品をお買いなさい、そうすれば幸せになれますよ』というわけだ。広告業者は、人がいかに愛と親密さを欲しているかを知っていて、その欲望につけこんで商品を売りつける。ハンバーガー・チェーンの広告には、ひとりぼっちでハンバーガーをかじっている人物はまず出てこない。それよりもにこにこ笑っている幸せな家族が登場する。ビールのコマーシャルは、『さあ、一緒に飲もう』と呼びかける。AT&Tのコマーシャルは『電話の向こうに、大事な人がいる』と囁く。
幸福や安らぎがよそから来るものだという誤解から、大きな苦しみが始まる。私は大勢の患者たちが言葉こそ違え、同じように訴えるのを聞いてきた。
『ひどく孤独で寂しいんです。私には何かが足りない、そうでなければ、こんな思いをするはずはないんだ。もっと金があったら、もっと美しかったら、もっと業績をあげられたら、もっと権力があったら、もっと高い地位があったら、もっと有名だったら、そうしたら幸せになれる。そして、人が愛し、尊敬してくれる。そうなったら、もうこんなに孤独でも寂しくもなくなるだろうに』
こういう世界観をもってしまったら、常にストレスを感じて孤独で不幸でいなければならない」(オーニッシュ)
大抵の詐欺師は、まず優しくしてきます。
ナチスはユダヤ人をガス室に送る際、優しい言葉で説得していました。
愛を前面に出して誘ってくる宗教も数多くあります。耳障りがいいことを言ったり、親切にしてきたりするのです。優しくされただけで「悪い人たちではない」と思ってしまい、そのまま信じてしまう人は多いです。
人間関係は大変、しかし孤独も苦しい、有っても苦しみ無くても苦しみという有無同然を見ることもできます。
人間の愛は偽物
愛を悪く言う人はまずいないでしょう。
「人に優しくしましょう」とは幼稚園でも教わることです。
しかし、仏教では人間の愛を小慈悲といいます。慈悲とは愛のことで、「小」という字は崩れやすく、壊れやすい不完全な偽物を表します。つまり、人間の愛は欠点のある偽物の愛ということです。
人間の愛の欠点
愛を絶対的に美しくいいものだと信じ込んでいる人は多いですが、たとえば人間の愛には次のような欠点があります。
・続かない愛
人間の愛は続かない愛です。
何でも無常ですが、愛も例外ではありません。どれほど強い愛情でも、弱くなったりなくなったりします。
・自己中心的な愛
人間の愛は自分の都合を優先する、自己中心的な愛です。
「すべての生物は、自分の利益が高まるように利己的に行動している。そして、利害が対立する相手とは競争したり、時には戦ったりする。もちろん、自然界には助け合いの関係もある。しかし、それも助け合うほうが得だから、助け合っているのである。ただ、それだけのことなのだ」(稲垣栄洋/静岡大学農学部教授)
・差別の愛
人間は自己中心的であるために、どうしても差別心があります。
たとえば、遠いアフリカの子供が餓死しても、自分の子供のかすり傷ほども驚かないでしょう。これは、アフリカの子供と自分の子供とで愛情に差別があるためです。
「人間は生まれつき人種差別的、自民族中心主義的なのであり、むしろ社会化と教育を通じて、そのような性癖を抑制することを学ぶのである」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)
「一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ」
「自分の身に降りかかってこない限り、何も他人や社会のためにやらないでしょうが。たとえば、家族から銃の犠牲者が出ないと、銃の規制に取り組むことはないんだ。結局、自分で痛みを感じたヤツが『それは許せない、嫌だ!』って主張するだけであって、なかなかボランティアとか善意ってのは力を持てないね。嘘の善意でもないよりはマシかもしれないけど」(ビートたけし)
もっと言えば、自分の子供に対してさえ差別があります。たとえば、自分になついて甘えてくる子供のほうが、そうでない子供より可愛いといった具合です。
「親は義理の子供より血のつながった子供をかわいがるばかりか、実の子供でもかわいがり方に差があり、知能、容貌、健康、社会性に優れた子供を優先する傾向がある」(アラン)
正像末和讃には、「愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」と説かれています。「自分の意に従い利益となってくれるような人やものは愛し、その逆は憎む、この落差は起伏が激しい高い山のようである」という意味です。
・盲目の愛
人間の愛は、物事の分別がつかない盲目の愛です。
善悪というのは非常に複雑です。愛情から相手のために良かれと思ってやってあげたことが、結果として相手を傷つけたり裏目に出ることがあります。
以上、愛の欠点を説明しましたが、程度の差はあれ、このような欠点に気づいている人は多いでしょう。
人間の本性は我利我利
利他とは逆に、自分の幸せを優先することを仏教では我利我利といい、我利我利の人を我利我利亡者といいます。
結論から言えば、すべての人間は我利我利亡者であり、自分が1番大事なのです。これまで説明してきた一切が、そのことを裏づけています。この点、ドーキンスの利己的遺伝子理論と共通点がありますが、やはり似て非なるものです。
・自分の利益は地球より重い
意識するとしないとにかかわらず、人間は常に、何をしたら1番利益が得られるのか考えています。身近な例で言えば、集合写真で周りがどれほど変な顔していても、自分がちゃんと写っていればいいでしょう。
「私たちは貧困が大きな苦難をもたらすことを知りながら、自分の富を分け与えることなく、高価な靴をまた一足買う。児童労働や、成人とはいえ過酷な条件の労働に基本的には反対しながら、ディスカウントショップでの買い物をやめない。私たちが声を上げないのは、自分の壊れやすい本質を守るためだ。自分は言行が一致した、倫理的で分別のある人間という幻想を持ち続けるためだ。(中略)人は自分の居心地の悪さが最小限になるように、自分が抱える矛盾に気づかなくてもよいように、社会の形を変えていく」(ジュリア・ショウ/ロンドンサウスバンク大学法社会学部上級講師)
精子も卵子も我利我利亡者で、自分の遺伝子を残す戦略を取ります。生物学者のエドワード・ウィルソンは、「個体の集団との潜在的な闘争は、細胞から帝国まで、生命のすべてのレベルに浸透している」と言いました。
人は口先では、「人間の命は地球より重い」などと言いますが、本心は誰もそんなことは思っていません。本心は、「自分の利益は地球より重い」と思っています。批評家のウィリアム・ハズリットが言ったように、「何百万という人類の滅亡よりも、自分の小指のけちな痛みのほうが心配なもの」なのです。
・人間は裏切る
「ブルータスお前もか」
信頼していた腹心、ブルータスに裏切られたカエサルの有名な言葉ですが、どんな人間もいざとなったら自分の利益を優先し、裏切ってしまいます。
太宰治の有名な作品に「走れメロス」があります。
世間では、この小説を美しい友情物語として評するでしょうが、自己を見つめる人なら、そうではないことが簡単にわかるでしょう。メロス自身も言っている通り、彼は友人のセリヌンティウスを心で裏切っていますし、セリヌンティウスもメロスを疑っています。そう書いてあるのに、このような事実に蓋をしようとする心理が人間には働きます。
「カルネアデスの板」のような状況に追い込まれたらどうするでしょうか。つまり、「自分」「親」「子供」「恋人」「友人」のうち、1人しか助からないという状況に追い込まれた時に、誰を助けるでしょうか。平生元気がいい時には、「自分の命を犠牲にしてでも大切な人を守る」などと言う人は多いですが、いざとなった時に本当にその通りにできるでしょうか。
日本でも戦時中、似たような状況に追い込まれた兵士の記録が残っています。救助ボートに必死にしがみつく仲間の腕を切り、自分たちだけ助かったというのです。この助かった人は後に、「あれで自分の身は救われたが心は救われていない」と語っています。
時折、パイロットが意図的に墜落させ、客を道連れに自殺するというニュースが流れますが、我利我利亡者である人間に命を預けるというのは恐ろしいことなのです。ちなみに、ハーバード大学が行った民間パイロットたちの調査によると、回答者の12.6パーセントが臨床的うつ病の診断基準を満たす状態で、「過去2週間に自殺的思考に駆られたことがある」と答えた人も4パーセントに上ったといいます。
同じ理由で医者にかかるのも本当は危険な行為です。ちなみに、ジョンズ・ホプキンス大学によれば、「医原病」はアメリカの3大死因の1つだそうです。アメリカ栄養研究所の創立者ゲーリー・ヌル博士の調査では、医原病は死因の1位で毎年約78万人が死んでいるといいます。
「全米で78万人。凄まじい数字である。ちょっとした大都市が、毎年、1つ、医者によって消滅している計算となる。言い換えれば、500人乗りのジャンボジェット機が毎日、アメリカのどこかで4機、墜落事故を起こしているのと一緒で、『病院』に行くというのは、毎日、墜落するジャンボジェットに乗り込むのと同じリスクという計算になる。ある特定のジャンボジェット機が毎日4機、必ず墜落していたら、果たして人々は、そのジャンボジェットに乗るだろうか?まともな人なら別の移動手段を考えるはずだ」(ベンジャミン・フルフォード/元米経済紙「フォーブス」アジア太平洋支局長)
「医者は負けない。負けるのはいつも患者だ。『医者は失敗を棺桶の中に葬り去る』という古い格言は、今でも通用する。医者は飛行機のパイロットにたとえられることがあるが、これは見当違いだろう。飛行機が落ちればパイロットは乗客ともども死んでしまうが、患者が死んでも医者は死なない」(ロバート・メンデルソン/イリノイ大学医学部准教授)
親は子供に何があっても守れると思っているかもしれませんが、そうではありません。
「親知らず・子知らず」と呼ばれる北陸道最大の難所があります。ここを駆け抜ける際、親は子を、子は親を顧みる余裕がなかったため、このように呼ばれているようですが、いざとなればわが子でさえ思いやれなくなるのです。
こんな話もあります。
ある家で火事があり、子供だけが取り残されてしまいました。狂乱状態の母親が家に飛び込もうとしますが、それを父親が制止しました。
「子供はまた産めばいいじゃないか」
この父親の言葉を聞いて母親は、「そうか」と納得してしまったといいます。この時の母親の心理が、すべての親、すべての人間にあるのです。
百喩経に、次のような話があります。
昔、ある愚かな男が一人の子を連れ、「わが子は7日しか生きられない」と天を仰いで大声で泣いていました。
傍にいた人はそれを聞いて不審に思いました。
「7日しか生きられないですって?冗談じゃない。今、元気に動き回っているではないですか。それに、7日ピッタリで死ぬなんて誰にもわかりゃしない。明日死ぬかもしれないし、1か月生きるかもしれない。そんなバカげたことを言うのはよしなさい」
「冗談ではありません。私の言うことが嘘か真実か、7日後に確かめにきてください」
「よーし、わかった。それではまた見ることにしましょう」
それから6日経ち、約束の日の前日となった時です。愚かな男はわが子の口をふるえる手で押さえつけ、とうとう殺してしまいました。
そんなことがあったとは露知らず、7日前に別れた人が約束の場所に現れ、死んだ子を見るや驚愕しました。
「いやいや、あなたが言った通りでした。7日ピッタリに死んでしまうとは。あなたは非常に優れた先見の明をお持ちだ」
以降、この愚かな男は、大きな名声と富を得たといいます。
この話は、名利のためなら大切なわが子でさえ殺してしまうという人間の欲深さをたとえているのです。
・家族の死さえ悲しめない
人間は人のためを思って心から悲しむことはできません。
家族など、大切な人が死ねば気が狂わんばかりに嘆き悲しみます。しかし、どれほど深く悲しんだとしても、心を具に見つめれば、時間と共にどうしても薄らいでしまう瞬間があることがわかります。その証拠に、一睡もせず徹夜で泣き続けることはできません。たとえ死んだ日は徹夜で泣くことができても、2日、3日と泣き続けることは難しく、睡眠欲が勝ってしまいます。酷い場合は、死んだ日でさえ徹夜で泣くことができません。人間は、家族の死にさえ悲しみ続けることができないのです。
「人のために悲しめる」という人は多いですが、それは自惚れであり自己の見つめ方が足りません。
また、自分が人の死に対してそうであるように、心から自分の死を悲しんでくれる人もいません。
・蜘蛛の糸
人間の我利我利の本性を表した例として、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」を簡単に紹介しましょう。
極悪人が時折、雑毒の善をしようと思う点、その雑毒の善でも善果となる点、我利我利の心が生じて破滅する点など、人間をうまく描写しています。
・人間に愛はない
どれほど「人間は利己的だ」とか「自分は我利我利亡者だ」と思っている人でも、「少しくらいは愛もある」と思っています。
ビートたけしは、「善意ってのは金魚すくいの紙よりも薄くて、悪意の水ですぐに破れてしまう」と表現しています。
詩人のラ・フォンテーヌは、「お互い友人だといっても、それを信じるのは愚か者。この名ほど世間にありふれたものはなく、その実ほど天下にまれなものはない」と言いました。
ドーキンスは、「利他的にみえる行為は実は姿を変えた利己主義であることが多い」という言い方をしています。
愛の欠点を説く人は多いですが、大抵の人は、このように、わずかでも愛はあるという立場です。
しかし仏教では、愛は微塵もないと説きます。
「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ」(悲嘆述懐和讃)
(訳:小さな慈悲の欠片さえもない身であり、人を救おうという心がないのが私である)
「小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃)
(訳:小さな慈悲の欠片さえないのに、名誉や利益のために人から先生と呼ばれるのを好むのである)
これが真実の自己ですが、このことは、自己を見つめながら利他を一生懸命しないとわかりません。
「人間の愛は小慈悲だから、しないほうが楽だし、やらないでいよう」などと思うのは間違いです。
「掃き溜めと金持ちは溜まるほど汚い」という諺もありますが、利他をしないと自然と心が汚くなるように人間はできています。
現代は、親密な人間関係を築かなくても生きることができてしまうので、意識的に利他をする必要があります。
そして、何より利他をしないと求道が進みません。
「利他をしないと自己はわからない」「利他以上にやることはない」といってもいいくらい、求道において利他は非常に重要なものです。この点についてはこちらで詳しく説明しています。
完全な愛とは仏の愛
人間の愛は差別の愛ですが、仏の愛は平等の愛です。どんな人でも、死の解決をすれば同じ境地に遊ぶことができます。
たとえるなら、どんな財布であっても、中身である金の価値に違いはないようなものです。高級な財布であろうが、ボロボロの財布であろうが、1万円が入っていれば同じ1万円の価値があります。1万円札は死の解決の境地をたとえており、財布は私たち1人1人のことをたとえています。釈迦のような優れた人(高級な財布)であろうと、私のような劣った人(ボロボロの財布)であろうと、死の解決の価値に違いはないのです。
・仏凡一体
仏心(仏の心)と凡心(凡夫の心)が一体となった状態を、仏凡一体といいます。死の解決をすることで、仏凡一体の身となります。
「行者の悪き心を如来のよき御心と同じものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり」(御文)
(訳:阿弥陀仏の本願力は、人間の悪い心を仏の良い心と同じものにさせる。こういうことなので、仏心と凡心が一体になるというのである)
一体とは、合体とは違い分離することができません。たとえば、合体とはサンドウィッチのようなもので、パンと具を分離することができます。一体は炭についた火のようなもので、炭と火を分離することはできません。
このように、仏凡一体とは、慈悲の欠片もない冷たい凡夫の心と、大慈悲の温かい仏の心が一体となり、分離できない状態となります。
「仏心は我等を愍念したまうこと骨髄にとおりて、染みつきたまえり。たとえば、火の炭に、おこり着きたるがごとし。離たんとするとも離るべからず。摂取の心光、我等を照らして、身より髄に徹る。心は三毒煩悩の心までも仏の功徳の染み着かぬところはなし」(安心決定鈔)
(訳:仏心は骨の髄まで徹底して染みつく。たとえば、炭に火がついたようなもので、炭と火を別々にしようと思ってもできない。煩悩に至るまで仏心の功徳が染みつくのである)