【人生は苦なり】誰でも1度は死にたいと思ったことがある。なぜ人生は苦しみで溢れているのか?四苦八苦の本当の意味とは?

人生は苦なり

「人生は苦しみ悩みの花咲く木」といわれるように、人生は苦しみで溢れています。
以下の記事で説明したように、一切は無常であるために、エントロピー増大の法則があるために、生きることは苦しみであり努力が必要なようにできています。

幸福は無常

「エントロピー増大によって放置していると無秩序になっていく私たち個体も、努力して積極的なエネルギー消費を伴いながら食い扶持を確保して、生命を維持していく必要があります」
「どんなに大きな企業であったとしても常に努力しないといけないのは、継続するためにはエネルギーを使って行動しないとエントロピー増大に巻き込まれて崩壊してしまうためです」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)

釈迦は初転法輪で、「人生は苦なり」とすべての人は皆苦しんでいると説きました。
法を説くことを「法輪を転ずる」といいます。でこぼこに荒れた人間の心を、ローラーを転がしてならすように綺麗に整えるため、このようにいわれます。
説法には相手が必要ですが、その相手は五比丘と呼ばれる5人の沙門です。彼らは、釈迦がの悟りを開いた後、最初に弟子になった人たちで、釈迦が出家する際に同行した人たちでもあります。釈迦が悟りを開いた直後、五比丘に対して行われた最初の説法なので、初転法輪といいます。
この世のことを「娑婆」ともいいます。娑婆はサンスクリット語のサハーに漢字をあてたもので、中国語で堪忍土、日本語では「苦しみを耐え忍ぶ世界」を意味します。
また、法華経にも次のように説かれています。
「三界は安きこと無し、猶お火宅の如し、衆苦充満して甚だ怖畏す可し、常に生老病死の憂患有り、是くの如き等の火、熾然として息まず」
(訳:この世に安心はなく、燃え盛る家の中で生きているようなものである。無数の苦悩が満ち溢れ、甚だ怖れるべきものである。常に生老病死の憂いがあり、これらの苦悩は燃え盛って消えることはない)
そして観無量寿経疏には「到る処に余の楽無し、唯愁嘆の声を聞く」と、「至るところで嘆き悲しみの声だけが聞こえ、楽は無い」と説かれています。「疏」は、塞がるところに水を通す「疏水」の用例があるように、経典本文の意義をはっきりさせる注釈書を指します。
さらに高僧和讃にも「生死の苦海ほとりなし」と「人生は苦しみの海のようである」と説かれています。

どんな苦しみがあるか

具体的にどんな苦しみがあるのか説明します。

四苦八苦

すべての苦を、大きく「生老病死」の四つに分類したものを四苦といい、これに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四つを加えたものを八苦といいます。現代では、非常に苦労することを四苦八苦といいますが、本来はこのような意味になります。
・生苦
生まれ出る苦しみです。
生きることは苦しみの連続ですが、そのもととなる苦しみです。赤ん坊は泣きながら生まれてきます。それはまるで、泳ぎ方を知らない赤ん坊が大海に放り出されるような苦しみといえます。
その昔、ミダスという王様が賢人シレノスに「人間にとって最も幸せなことは何か」と聞きました。するとシレノスは「それは、生まれてこないことです」と答えました。しかし、すでに生まれてしまった王様は「では、2番目に幸せなことは何か」と聞きました。するとシレノスは「それは、今すぐ死ぬことです」と答えました。
この話は、生まれることが苦しみのもととなっているということを教えています。もっとも、「死後は必ず地獄」という事実を知らないからシレノスはこうアドバイスしたのですが、生まれることが苦しみのもとであるという点はその通りです。

地獄は本当にあるのか?苦しみはどれくらいか?誰が堕ちるのか?

・老苦
老いる苦しみです。
どんな人でも年を取れば、衰え弱くなります。いくら外見を若く見せても、その衰えはごまかし切れません。外見が老けたり、物覚えが悪くなる程度であればまだいいですが、要介護者となったり寝たきり生活となれば、自分はもちろん、周囲の人間にとっても大きな苦痛です。

【老苦】身体の衰え、老いの孤独、介護疲れetc.

・病苦
病気になる苦しみです。
「人は病の器」といわれるように、次から次へと病が生じ、大半の人は病気で死にます。病気は四百四病あるといわれ、これは無数にあるということですが、どれほど医学が進歩しても、結局は病気に負ける運命にあります。
人間の命はあっという間ですが、いわゆる健康寿命はもっと短いです。重い病にかかれば天を仰ぐようにして激しく苦しみますが、死にたくないために激痛に耐えてでも治そうとし、体が機械化してでも生きようとします。死にたくない欲求と死にたい欲求がせめぎ合うのです。

【病苦】重い病にかかるとどれほど苦しいのか

・死苦
死の苦しみです。
人間にとって最大の苦しみが死苦です。他のどんな苦しみも死の苦しみに比べれば、無きに等しくなってしまいます。

死より苦しいことはない。楽な死に方はない。

・愛別離苦(あいべつりく)
愛する人と別れる苦しみです。
「会うは別れの始め」といわれますが、会者定離であって、出会ったからには離れる定めにあります。一瞬で大切な人を失うことがあり得るのがこの世界です。意識するとしないとにかかわらず、別れの時は刻一刻と確実に近づいています。
そして、いざやってくれば、その大きな衝撃に塗炭の苦しみを味わうことになります。嫌いな人と別れるなら嬉しいでしょうが、生き別れにしても死に別れにしても、大切な人との別れは耐え難いものがあります。

【愛別離苦】死別はこんなに苦しい。大切な人を失うと必ず後悔する。失ったことが信じられない。

・怨憎会苦(おんぞうえく)
嫌いな人と会わなければならない苦しみです。
学校にしても職場にしても、どの世界にも嫌な人間はいるものです。好きで一緒になった人が嫌な人間に変わるということもあります。一時的なものであればまだいいですが、長時間一緒にいなければならないとなると、その苦痛も大きなものがあります。

・求不得苦(ぐふとっく)
いくら求めても満足できない苦しみです。
命は有限であるのに、欲しいものは次から次へと無限に出てくるため、心から満足することはありません。第2巻で説明した通りです。

・五蘊盛苦(ごうんじょうく)
蘊とは「集まり」を意味します。人間は、五蘊という大きな5つの集まりから仮にできているという考え方を、五蘊仮和合といいます。

想蘊:イメージしたりする表象作用
色蘊:肉体部分
受蘊:感覚や感情等の感受作用
識蘊:識別、区別する認識作用
行蘊:意識を生じさせる意志作用

色蘊が肉体、その他の4つが心です。ですので、五蘊盛苦とは心身が盛んであるために生じる苦しみです。
五蘊盛苦は、前7つの苦の根本に位置する苦です。煩悩にしても前7つの苦にしても、あらゆる苦は五蘊が盛んであるために生じるということです。

以上、四苦八苦について簡単に説明しましたが、他にも次のような苦が説かれています。

二苦

内苦:怒りや恨み等、自分自身の心身から生じる苦
外苦:事件や事故、災害等、外的な作用によって生じる苦

三苦

苦苦:寒さや熱さ、病等、そのものが苦である苦
壊苦:幸せや楽しみが壊れる苦
行苦:行は諸行無常の行で、一切のものが無常であることを感じる苦

例外なく苦しんでいる

どんなに幸せそうに見える人であっても、人間は皆、例外なく苦しんでいます。
芥川龍之介は「人生は地獄よりも地獄的である」と表現しています。本当の死後の地獄を知らないから彼はこのように言っているのですが、このように表現したくなるくらい人生が苦しいところであるという点ではその通りです。
苦しみばかりで、たまに無常の幸福があるというのが人生です。
そのことを様々な人が様々な言葉を使って表現しているので少し紹介します。

「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走らなければならない」(アインシュタイン/物理学者)

「人間に課してきた人生を神も生きてみよ、という判決が突きつけられたら、神は自殺するだろう」(アレクサンドル・デュマ/小説家)

「我々は泣きながら生まれて、文句を言いながら生きて、失望しながら死ぬ」(イギリスの諺)

「人間の生活は、男性にとっても、女性にとっても初めから地獄なのだ。絶えざる労苦、病との戦い、死の恐怖、産みの苦しみ、社会や国家の重圧、習慣や道徳の拘束、人間は初めから地獄の中に生まれ、地獄の中で活きているのだ」(石川達三著「幸福の限界」より)

「たぶんこの世は、別の惑星の地獄に違いない」(オルダス・ハクスリー/作家)

「どうしても、万事は享楽というよりは骨折りであり、心労である」
「結局、わたしの75年の全生涯で真の幸福を感じたのは、4週間もなかっただろう、残りの人生は苦悩に満ちたものだった」(ゲーテ/詩人)

「国を建つるには千年の歳月も足らず、それを地に倒すには一瞬にして足らん」(ジョージ・ゴードン・バイロン/詩人)

「生きるということは大変なことだ。あちこちから鎖が絡まっていて、少しでも動くと血が噴き出す」(太宰治/小説家)

「人間にとって一番善いことは生まれないことであり、次に善いことは一日も早く死ぬことである」(テオグニス/哲学者)

「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」(徳川家康/武将)

「智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい」(夏目漱石/小説家)

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」(林芙美子/小説家)

「大多数の人間は、静かな絶望の生活を送っている」(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー/作家)

「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがある。しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする」(正宗白鳥/小説家)

「生は苦だと言うこと。明白に知ることが必要だ。生ある限りは戦である」(水木しげる/漫画家)

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ」(森信三/哲学者)

「青春の時期は、いつの時代でも恥多く悩ましいものだ。もう一度やれと言われてもお断りしたい」(吉行淳之介/小説家)

「準備十年、成功五分」(ロアール・アムンセン/探検家)

ちなみに、どんな人でも「死んだほうが楽だろう」と1度は思ったことがあるものです。

自殺しても楽になれないワケ

苦しみの根源

どんな結果にも原因があります。苦しみを解決するために、苦しみを生み出す原因を見つけるのは当たり前のことです。

十二因縁

釈迦が悟った因果の法則は、もう少し詳しくいうと、十二因縁と呼ばれるものになります。十二因縁とは、十二縁起ともいい、苦しみが生じる仕組みを、次の12の因果関係に分けて説いたものです。
1.無明
真理に対する根源的な無知をいい、この無明が因となって次の行を生み出します。
2.行
前生で造った業のことで、この行が因となって次の識を生み出します。
3.識
前生で造った業が、生命の核となる精神となって現れたもので(これが母胎に宿る)、この識が因となって次の名色を生み出します。
4.名色
名は精神、色は物質のことで、識が核となって具体的に形となった生命組織をいいます。識が母胎に入った一刹那の後、つまり第二刹那から眼や耳ができるまでの期間です。この名色が因となって次の六処を生み出します。
5.六処
眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感覚器官のことで、六処が母胎に備わります。この六処が因となって次の触を生み出します。
6.触
感覚器官が外界の事物に接触して起こす感覚のことで、生まれてから2,3歳頃までの幼年時代をいいます。この触が因となって次の受を生み出します。
7.受
外界から様々な知識や言語等を受け取る感受作用のことで、感受性が強くなる少年時代をいいます。この受が因となって次の愛を生み出します。
8.愛
渇愛のことです。飢えて水を求めるように、物や性を飽くことなく求める根本的な欲望で、性愛に目覚める青春時代をいいます。この愛が因となって次の取を生み出します。
9.取
執着のことであり、あれも欲しい、これも欲しいと貪り求める心で、30歳以後の時代をいいます。この取が因となって次の有を生み出します。
10.有
業のことであり、愛や取に惑って、輪廻する様々な悪業を造ることをいいます。この有が因となって次の生を生み出します。
11.生
前生の業によって次の世に生まれることをいい、この生が因となって次の老死を生み出します。
12.老死
生まれたために、老いて死んでいかなければならない苦しみをいいます。老死は一切の苦しみの総称でもあります。

無明

特に重要なのが、すべての苦しみの根源が「無明」であるということです。無明とは、無明の闇とも、三途の黒闇ともいい、書いて字の如く、明かりの無い真っ暗な闇のような心で、何をやっても安心・満足ができない心です。最も根本的な煩悩であり、この無明の心を持っているために、すべての人間は根本的に幸せにはなれないということです。

すべての人間の苦しみの根源は無明。すべての人間は無明という恐ろしい病を患った病人

・根本解決に目を向ける
人間の考える苦しみの原因は、すべて浅いものであり、対症療法にすぎません。病気や災害といった、無限に生じる枝葉の苦を対症療法で解決することばかりに意識が向き、わずかな寿命と無常の幸福を手に入れることにだけ躍起になっているのです。
確かに、無常に抵抗し、枝葉の苦を解決するという視点も大切です。たとえば、ピストルの弾丸が飛んでくれば、まずは避けるべきでしょう。対症療法が無駄と言っているわけではありません。
しかし、対症療法ではキリがありません。根本解決の方法がわからないので無理もありませんが、解決法はあり、そして第1巻から説明してきたように今や科学的な根拠もあるのですから、それに目を向けなければなりません。
釈迦は初転法輪で、次の真理を説きました。

苦諦:この世の一切は苦であるという真理
集諦:苦の原因は自分自身にあるという真理
滅諦:苦は完全に滅することができるという真理
道諦:苦を完全に滅する道があるという真理

「諦」とは真理を意味し、4つを合わせて四諦、または四聖諦といいます。
昔、あるゲームで樹をイメージした敵キャラがいました。この敵は、一見すると枝葉が攻撃してくるため、プレイヤーは枝葉を倒そうとします。
しかし、しばらくして、いくら枝葉を倒しても枝葉は無限に再生することに気づきます。実は、この敵は根を倒す必要があったのです。
人生はこれと同じようなことがいえます。
また、無間地獄というやがてくる巨大な苦しみに目を向けず、目先の小さな苦しみにばかり目が向いている状態でもあります。いつかは無限に生じる苦に敗れ、地獄に飲まれてしまいます。
死の解決をしなければ、この世の地獄から死後の地獄への綱渡りとなってしまい、生きるも死ぬも地獄となります。これを従苦入苦といいます。
「悪人行悪 従苦入苦 従冥入冥」(大無量寿経)
(書き下し:悪人は悪を行じて苦より苦に入り冥より冥に入る)
(訳:悪人は悪を造り、この世の苦しい闇の世界から、未来の地獄へと、苦から苦への綱渡りとなり沈んでいく)
あくまで根本解決が目的であり、その目的を達成するための対症療法であることを知るべきです。

〇抜苦与楽
抜苦与楽とは、「苦しみを抜いて楽を与える」という意味ですが、「人生は苦なり」から「人生は楽なり」に一変します。

「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず」(教行信証)
(訳:阿弥陀仏の本願は苦悩の海を渡す大きな慈悲の船であり、死の解決をしてこの船に乗れば、光り輝く広大な海に浮かぶことができ、この上ない喜びの風が吹いて、すべての不幸の波は消える)

・苦しみは遠い昔のこと
出産の苦しみは赤ん坊が産まれた瞬間に消え、また、片思いの苦しみは恋愛が成就した瞬間に消えます。無常の幸福でさえ手に入れれば、それまでの苦しみが吹き飛び、「生きてて良かった」と思い、生まれ変わったかのように感じることがあります。まして、死の解決です。求道の苦しみも雲散霧消してしまいます。

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