【老苦】身体の衰え、老いの孤独、介護疲れetc.

「様々な身体検査を行った後、診察室でこう告げられます。あなたは今後間違いなく、健康に色々と悪影響が出る医学的状態にあります。症状は情け容赦なく悪化して行き、いずれは視覚も聴覚もやられ、しっかりとものを考えることもできなくなります。味覚が鈍くなるのに加えて消化器系にも障害が出るので、いずれは食べる楽しみも奪われ、消化の良いものくらいしか食べられなくなります。気力・体力が衰えるため、将来的には好きな活動の多くができなくなり、最終的には運転も、1人で歩くことさえもできなくなります。また、徐々に冠動脈性心疾患、脳卒中、アテローム性動脈硬化、肺炎、関節炎、糖尿病といった、様々な病気にもかかりやすくなっていきます。医療の専門家に頼らずとも、この進行性の医学的状態というものの正体は特定できます。そう、老化です」(ロバート・チャルディーニアリゾナ州立大学教授)

人生には4つの大きな苦しみがあり四苦といいますが、その1つに老苦があります。老いる苦しみです。

頓智で有名な一休は「世の中の 娘が嫁と 花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」と詠みましたが、どんな人にも老いが待っています。
亡くなる1年ほど前のウィンストン・チャーチルの姿について、アメリカの政治コラムニストであるスチュアート・オルソップは次のように語っています。
「チャーチルの大きな頭は、グロテスクにがっくりと垂れてしまった。それはからっぽの、人間の形骸だった。あの機知と優雅さと偉大さは、すべて歳月に奪い去られてしまっていた。私の母のように、チャーチルももっと早く死ぬべきだったのだ」
博多聖福寺の仙厓は、老人六歌仙という句を残しています。

1.しわがよる ほくろができる 腰まがる 頭はげる ひげ白くなる
2.手は震う 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる
3.身に添うは 頭巾 襟巻 杖 眼鏡 たんぽ 温石 尿瓶 孫の手
4.聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心は曲がる 欲深くなる
5.くどくなる 気短くなる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる
6.またしても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に 人は嫌がる

身体の老化

どんなに年を取っても、心は青年期のままで、自分はまだまだ若いと思っているものです。
しかし、肉体は確実に老化していきます。子供から「おじさん、おばさん」と呼ばれてショックを受けたり、鏡や写真に映った自分の姿に驚いたりします。「まだまだ現役でやれる」と意欲があっても、強制的に辞めなければならない時がきます。

老いの孤独

年を取るとコミュニケーションの機会が減ります。
祖母の葬式の時、「葬式を楽しみにしていた」と言っていた高齢の親戚がいました。それぐらい楽しみがないのです。
神戸で99歳の女性が自殺したというニュースがありましたが、周囲には「100歳になるまで生きるのが嫌だ。周りに人がいなくて寂しいのが嫌」と漏らしていたといいます。
家族がいれば幸せかというと、そうとも限りません。遺産を相続する親族への嫌がらせのために、紙幣を細断して死んでいった女性もいます。
監察医の上野正彦(元東京都監察医務院長)は、30年間で2万体の死体を検死したという人ですが、彼の調査によれば、独り暮らしよりも3世代同居の老人の自殺率のほうが高く、その動機は家族からの疎外であるといいます。
「普通は家族と同居している老人は幸せで、独り暮らしの老人のほうがわびしい生活を余技なくされ、自殺しやすいと思いがちだが、調査結果はまったく逆だった」(上野)
ちなみに内訳は、3世代同居の自殺が30%強でトップ、以下、「独り暮らし」「夫婦ふたり暮らし」「子供とふたり暮らし」の順だったといいます。
1980年代、豊田商事事件なるものがありました。
1人暮らしの老人を狙ったこの事件の被害総額は2000億円にも上り、30年以上経った今でも戦後最大の詐欺事件となっています。この事件を受けてクーリング・オフ制度ができました。また、会長の永野一男(32)が、多くのマスコミの目の前で2人組の男にめった刺しにされて殺され、その様子がNHKなどで生放送されたことでも有名な事件です。
騙されたことを知り、さぞ被害者たちは怒り心頭かと思いきや、そうでもない人たちもいました。家族から不用意さを責められて「お前よりずっと優しかった」と言い返す老人や、騙したセールスマンを懐かしむ老人が多くいたといいます。実際、彼らは寂しい老人の話し相手になるなど優しくしていました。もちろん騙すためですが、その老人たちは騙されてもいいから優しさが欲しいというのです。
「無告の民」という言葉もありますが、老人に孤独感がある限り、いつの時代も似たような手口で騙される人が出てくるでしょう。
父母恩重経には次のように説かれています。
「父母、年たけて気老い、力衰えぬれば、頼るところのものは、ただ子のみ。頼むところの者は、ただ嫁のみ。しかるに夫婦ともに、朝より暮れに至るまで、未だ敢えて一度も来たり問わず。
あるいは父は母を先立て、母は父を先立てて、独り空房を守りおるは、あたかも旅人の、独り宿に泊まるが如く、常に恩愛の情なく、また談笑の楽しみなし」
(訳:親が高齢になって、気力や体力が衰えれば、頼れるのは子供だけであり、その嫁だけである。しかし、夫婦は共に、朝から晩まで一度も来てはくれない。
親のどちらか一方が先に死んでしまえば、独りで寂しい家で過ごすことになり、その姿は旅人が一人で宿に泊まるようである。常に恩愛の情もなく、談笑の楽しみもない)
好きになれば愛別離苦、嫌いになれば怨憎会苦が待っています。
第2巻では「人生は何もない」ということを説明しましたが、年を取って初めて、そのことを実感する人も多いです。ふとした瞬間に、「私の人生って一体何だったんだろう」と嘆くのです。

介護に見る老いの苦しみ

「『介護に疲れた』発達生涯の長男殺害、容疑で80歳母親逮捕」(産経新聞2015年3月15日)
「『妻への愛情故の犯行』 嘱託殺人、93歳被告に猶予刑」(千葉日報2015年7月8日)

介護疲れによる悲劇も後を絶ちません。毎日新聞の調査によれば、自宅で家族を介護している人の約7割が精神的・肉体的に限界を感じていたといいます。恩知らずな不孝者だけではなく、孝行者や「普通の人」が暴力を振るうようになり、介護施設を姥捨山のように使ったり、「死んでくれ」と願うようになったりするのです。
東京工業大学名誉教授の今野浩は、難病を抱えた妻(道子)の介護体験を綴った著書の中で、次のように人間の本性を素直に描写しています。
「このまま行けば、自分の足で歩けるのはあと2、3年だろう。果たして道子は、動けなくなっても生きていたいと思うだろうか。寝たきりになって、意識だけは正常だとしたら、人はどうやって生きていくのだろう。生ける屍を生かすのは、死せる魂だけではないのか。自分で生命を絶つ勇気がなければ、待っているのは狂気と錯乱だ」
「動けなくなった道子を抱えて、どうすればいいのか。1,2年ならともかく、何年間も支えることはできないかもしれない。新聞には、難病で苦しむ老妻の首を絞め、自分も命を絶つ老人の記事が溢れている。人間はいつか必ず死ぬ。だから、本人が死にたいと言うなら、死なせてやるべきではないだろうか。しかしこれは殺人幇助だ。生き残って殺人罪に問われるより、むしろ一緒に死んだ方がいい。ところがそれができないから、人は生き恥をさらすのだ。
道子を死なせる場合には、自殺に見せかける方法が必要だ。しかし完全殺人を狙っても、警察の調べにあえば他愛なく暴かれてしまう。何らかの方法はあるはずだが・・・・。『自殺大全』という恐ろしいタイトルの本を買って見たものの、私はこれが必要になるのはまだ先だと考えていた」
「人間は生まれたときから、滝つぼに連なる川の中を流れている。上流に居る間は、滝つぼの存在に気がつかない。しかしあるところを超えると、急に流れが速くなって後戻りできなくなる。私は自分がすでにクリティカル・ポイントを越えたことに気づいていた」
「あれこれ考えた末にたどり着いた答えは、道子に睡眠薬を飲ませた後、ストーブの脇に洗濯物を置き、自分も大量の睡眠薬を飲むことだった。2人の焼死体を発見した大泉の警察は、単なる過失として扱ってくれるだろう」
「道子の第一の難病を発症するまで、家族の将来には一点の曇りもなかった。ところが15年後の今、私は暗黒の中をさまようことになったのである。気丈な道子は、愚痴をこぼすことはなかった。しかし、時折涙を拭いている姿を見るたびに、私の胸はつぶれた。長い結婚生活の間、道子が涙をこぼすことはほとんどなかったのである」
「何とかして泣き止ませようと思った私は、道子の頬を手の平で叩いた。それでも泣き止まないので、さらにきつく叩いた。(中略)私はひとたび暴力をふるったら最後、それは次第にエスカレートしていくということを知ったのである。以後私は、どのようなことがあっても、暴力をふるうことは慎んできた。それなのに、その禁忌を破ってしまったのだ」
「寝かせたかと思うと、15分後には痛くて寝ていられないと絶叫する。ところが椅子に坐らせ15分すると、また寝ると言う。夜の間中これが繰り返されるのである。
ウィークエンドは、ヘルパーさんは来ない。金曜の夕方から月曜の朝までの60時間の間に、私は完全に煮詰まってしまった。煮詰まった男は、絶叫する道子の口を塞いだ。すると手を振り切って、ますます大きな声を出す。夜中にこのような大声を出すと、確実に上の部屋に届く。もちろん外からも聞こえる。どうか泣き止んでくれ!!煮詰まった鍋からは、黒い煙とともに怒りの塊が噴き上げた。私はふたたび道子の頬を手のひらで叩いた。
しばらく前に悪い夢を見て泣き叫んだとき、頬を平手で叩いたことがあった。その時道子は、タオルを口に入れて死のうとした。猛省した私は、以後どのようなことがあろうとも、暴力を振るわないことを誓った。それなのに、また殴ってしまった。もし道子が元気だったら、即座に家を出て行くだろう。殴ったのは、逃げ出せないことがわかっているからだ。これ以上卑怯な行いはあるか。私は道子に頬ずりして詫びた。反省するだけなら猿でもできる。
15分後、私はまた殴った。それまでの理性的な道子と、泣き叫ぶ道子との落差が大きかったせいである」
 妻が死んだ後には次のような後悔を語っています。
「この3年余り1日も欠かさず面倒を見たのだから、これ以上のことはできなかったと思うように務めた。しかし葬儀が終わったあと、後悔の大波が次々と襲ってきた。あのとき、ああしてやればよかった。あんなことをしなければよかった。この状態から抜け出すにはどうすればいいのか」
父親の介護をしていた作家の荻野アンナ(慶応大学文学部教授)も、次のように自分でも訳もわからず「凶器」を準備したと告白しています。
「ある病院から次のリハビリ病院に移ると、父は『なぜ私をこんなところに閉じ込めるんだ』と騒ぎを起こし、担当の医師から『もう、うちから出て行ってください』と連絡が来たんです。やっと見つけた病院だったこともあり、連絡を受けた私は目の前が真っ暗になってしまって。病院に行く途中、最寄りの駅のコンビニでカッターナイフと缶チューハイを買っていました。どうして買ったのかは、自分でもよくわかりません。とにかく無我夢中でした」
「まず父に、『騒いではいけない』と優しく諭してみたんですが、話を聞こうとしてくれなかった。すると、それまで私の中でなんとか保っていた『何か』がガラガラと音を立てて崩れ、『もういや、こんな生活!』『お父さんを殺して私も死ぬ!』と叫びながら、床を転がっていました」
「結局、カッターナイフを使わずに済みました。本当によかった。しかし無意識とはいえ、私は間違いなくカッターナイフを買い、父の病室に持ち込んだ。父への殺意というよりも、『世界中で私以外にこの人の面倒を見られる人はいない。だから、責任をとって心中しよう』という気持ちからの行動だったと思います」
仕事をほとんどせず母親の介護をしたという元お笑いコンビ「ドロンズ」の大島直也は「親孝行をしたかったが、介護がこんなに大変だと思わなかった」と言い、「介護は突然やってくる。そのとき、どうしたらいいのか。いざというときのことを考え、事前に親と話をしておいた方がいい」と警告しています。
家族でもこうなるのですから、他人はなおさら難しいことでしょう。介護施設などでの虐待がなくならないわけです。

天上界の老い

すべての生けとし生けるものは6つの世界を生まれ変わり死に変わりしていますが(六道輪廻)、その中で最も楽しみが多い世界が天上界です。この世でたとえるなら、芸能界や社交界など、セレブで華やかな世界に相当するでしょう。
では、苦しみは無いのかというとそうではありません。たとえば天人五衰といって、死が近づくと次の5つの兆候が表れると説かれています。

1.頭上の花飾りが萎む
2.衣服が汚れる
3.身体が臭くなる
4.目が眩む
5.生活を楽しめなくなる

この5つの相が現れると、家族を含め、周りの者がすべて離れていき、まるで雑草のように棄ててしまうといいます。人間界の老いと、よく似ています。
ちなみに、別の種といっても同じ「生物」ですので、どの生物でも人間と多くの共通点があります。

死を意識する

死ぬ確率は年を追うごとにどんどん高くなり、死を意識せざるを得なくなってきます。
小説家の遠藤周作は、著書「死について考える」の中で次のような話をしています。
「大学の2,3年先輩で、病気などしたことのない丈夫な人がいて、先日会ったとき、このごろ君の書くものにはよく死についてふれているじゃないか、と言うんです。去年の春出版した『スキャンダル』という私の小説も読んでくれていて、『死が近づいているということをその小説にもしきりに書いているが、ぼくなんか、君より年上だけれど、歳をとったという自覚はないわけではないが、そんなに年寄りになったとも思わないし、まして死なんて、あまり考えたことないなあ』と言うんです。(中略)
その丈夫な先輩も、20数年前に兄さんをガンで失ったとき、ガンにならないためにキャベツの青汁などを飲んでいたことがありましたが、そのときはやはり死というものを考えたんだと思います。私はその先輩とは学生のときからのつきあいで親しいもんだから、60過ぎて死について真剣に考えないのは、怠慢か、鈍感な人であって、決して褒めるべきことではありませんよ、と言ってやったのです。
すると、『死んだら一巻の終わりだ、無になるだけだ、何も生きてるうちから死について考えて、心を暗くすることなんかないじゃないか』と強がりを言うんです。彼は長い人生でいつも強がりのポーズをとってきたのですが、本当に病気になり、死が近づいてきてもその強がりを続くでしょうか。(中略)
老とか死とかからは、私たちは逃れるわけにはいかない。これほど確実なものはない。夜中に、目覚めたとき、死をどのように迎えるかということを考え込んでしまうんですけど、他人にはそれを見せるのは失礼ですから、昼間は陽気を装います。忙しい仕事の合間にも『樹座』という劇団を作って芝居やダンスをやったり碁をうったり、下手なパステル画を描いたり、できるだけ汚らしい夜の顔を見せないようにしているわけです。しかしこれは誰でも同じでしょう。(中略)できるだけ楽しげにふるまって、元気あるなあとみんなから見られるようにしているけれど、それはまあ世間への外づらで、本音の内づらでは、死ぬ時は苦しまないで死にたいとか、安楽死というのはどうするんだろうとか、節制をすれば痛くなくて死ねるのかなどと、皆いろいろ考えているのだと思います」

老いを飛び越えて死ぬ

いくつになっても、まだまだ自分は若いと思っているわけですから、「老いを飛び越えて死ぬ」という表現が正確です。つまり、若者→老人→死といった順番通りにはならず、若者のままいきなり死がくるということです。
「老獄」という題の映画もありましたが、年を取って良いことなど何もありません。年を取れば取るほど、どんどん人生が悪くなっていくのです。

何事も若い時が勝負ですが、特に仏教は若い時にやるべきであり、早ければ早いほどいいです。

仏教は若者がやるべきもの

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