東京帝国大学(現在の東京大学)の助教授だった福来友吉の生涯について紹介していきます。
1869年、岐阜県高山町で生まれた福来は、心理学、特に催眠心理研究の第一人者でした。
「不思議で怪しい現象」と思われていた催眠術に、科学的分析を加え本態を究明しただけでなく、自身も催眠術を習得し多くの被験者に施術していました。
催眠は睡眠とは異なり、催眠中は外からの暗示にかかりやすく、催眠中に与えた暗示が催眠解除後にも影響を及ぼします。
たとえば、自殺や殺人を命じて催眠を解除すれば、実際に自殺をはかったり人を殺したりすることがあるため、使い方次第では非常に危険なものです。
当時は催眠術が流行現象となっており、催眠術を利用した犯罪事件も発生していたため、軽犯罪の取り締まりの対象にもなっていました。
催眠研究から、その後の心霊研究につながりましたが、福来は晩年、「念写の研究を始める以前の、私の催眠の研究などは、まるで幼稚なもの」と語っています。
御船千鶴子との出会い
「御船千鶴子嬢は私の研究した第一番目の透視能力者であると同時に、心霊研究界に最も豊富にして確実なる実験を遺した人である」
「実に千鶴子嬢こそは、神通能力の実在を吾人にはじめて示してくれた学術上の最大恩人である」
超能力者・御船千鶴子について、福来はこのように称えます。
千鶴子は、義兄の催眠術によって「透視ができる」と暗示を受けて透視能力をもった人で、たとえば次のようなエピソードがあります。
日露戦争の時のことです。
貨客船常陸丸が遭難し、この船に第6師団の兵士が乗っているかどうかを千鶴子に聞いたところ、「同師団の兵士はいったん長崎を出発したが、途中に故障があって長崎に引き返し、同船には乗っていない」と答え、その3日後にこれが事実であったことが確かめられたといいます。
また、千鶴子は海の中に金の指輪を落としたことがあり、その指輪の場所を透視して見つけたという話もあります。
見つけた時に、指輪のほとんどは砂の中に隠れており、その上には貝殻が被さっていました。この時、目的物である指輪全体だけが明白に見えて、砂や貝殻など他のものは現れなかったといいます。
他にも、紛失物を透視で見つけたり、人体内部を透視して病気の治療に使ったりと、千鶴子は様々な場面で透視能力を発揮していました。
千鶴子と福来の出会いは熊本にある中学校の校長からの紹介でした。校長は、催眠術研究の第一人者である福来なら、この不思議な能力を解明できると思って相談しに来たのでした。
千鶴子の存在を知った時、福来は特段驚きませんでした。以前にも、催眠中の被験者に似たようなことがあり、千鶴子もそれと同じ類のものか、それより程度が進歩したものと思っていたからです。
たとえば、被験者が机上に置かれている閉じられた本の何ページに何が書かれているかを読み取ったり、全体の大要を述べるといった具合です。その本は特殊な専門書で、催眠中の者が以前にそれを見たはずもなく、見ても理解することができないようなものでした。
まずは通信による予備実験を行ったところ良好な結果が出ました。十分研究する価値があると思った福来は、千鶴子がいる熊本まで出向きます。しかし、この時までは、福来は透視だとは確信しておらず、視覚が鋭敏になったことよるものだという疑念がありました。
・透視の確信
実験内容はシンプルです。
多数の名刺の中から無作為に1枚を抜き取って錫製の箱に入れ、さらにこれを木製の箱に入れて蓋を密封した上で名刺の名前を透視させるといったものです。
何度も実験を行い、そのほとんどが的中したため、福来は「その結果は非常に優良で、透視能力の疑うべからざることを証明するに足るのであった」と透視の存在を確信します。
福来と一緒に千鶴子の研究をしていた、京都帝国大学医科大学(現在の京都大学医学部)教授の今村新吉も、「千鶴子の透視行為のうちには詐欺的、詭計的なものは何ら認むべきものはなく、透視後の実験物に何の疑惑を生ずる痕跡もなかった」と見ています。
また、公開実験に参加した精神病学研究の第一人者である呉秀三(東京帝国大学医科大学教授)も次のように言います。
「実験は、どの方面から見ても疑う余地はない。日本にも西洋にも従来これに類したことはずいぶんあった。学者の研究を企てた者もあるが、調べてみると詐欺的だったり贋物だったり、あるいは逃げてしまったり、立派に研究されたものはほとんどない。今度の如く学者が多勢集まって実験し、透覚の事実を確かめ得たのは珍しいのである」
しかし、透視を確信するに至ったものの、福来には学術研究の立場から千鶴子に対して2つ不満がありました。
1つは、透視の際、実験物に手を触れていたことで、もう1つは、顔を見られると精神統一ができないという理由から人に背を向けていたことです。これでは正面から千鶴子の手元を見ることができず、学者たちは詐術をするためだと疑って攻撃したのでした。
学術的研究の要求に適合させるために、こういった「癖」を直す必要がありますが、そうすると今度は能力が発揮できなくなります。福来は能力者の教育にかなり苦労しています。
心を科学する難しさ
超心理の研究は難しいものですが、その大きな原因はなんといっても研究対象が「人間の心」であるためです。
・気持ちが影響する
透視も念写も精神作用によって生じる現象なので、能力者の気持ちの不良によって失敗することもあります。
福来が研究した能力者の中には、研究中に能力が消失してしまった人もいました。
たとえば、千鶴子について福来は次のように言います。
「千鶴子の透視実験の成功にとって絶対的に必要なる条件は、精神の不安なることこれなり。わずかにても不安の念ある時は、たちまちにして精神統一を害し、したがって透視に困難を生ず」
・信頼関係
福来は能力者を扱う注意点をいくつか挙げていますが、その中で「精神能力を研究する上で最も必要なこと」として、能力者と研究者との信頼関係を挙げ、「研究者が自分勝手の条件を無遠慮に提出して振る舞うのではなく、能力者の気持ちをよくするように取り計らうべきだ」と言います。
初めて会う研究者や、能力者に対して疑いや悪意がある研究者がいると、能力を十分に発揮できないということがあり、福来自身も最初のほうの研究でこれができていなかったため反省しています。福来はこの点について、次のようにたとえます。
「信頼できるものが金を借りに行くと、快く貸してくれる。しかし、信頼できない者が行くと、貸してくれない。それは金がないからではなく、相手が嫌いだからである。透視や念写の実験では、まず能力者から信頼される必要がある」
ちなみに、この点は今日、ヒツジ(超心理信奉者)とヤギ(否定論者)効果として知られています。
・実験は命がけ
たとえば、念写の場合、念写すべきものを一心に念じ、次に精神を統一して一切の雑念を取り払い、そして文字を乾板に押しつけるという流れですが、精神作用が肉体に大きな負担をかけます。時には45度以上の命にかかわるような非常に高い熱が出たり、疲労のために実験後は何日も動けなかったりといった具合です。
長尾郁子との出会い
千鶴子の次に福来の研究対象となったのが、香川県丸亀市の裁判官夫人・長尾郁子でした。
郁子は千鶴子の霊能に関する新聞記事を読んで、面白半分に子供たちを相手に透視をやってみたところできたという人です。
福来は「新たな千里眼婦人」という見出しの新聞記事を読んで郁子の存在を知り、「彼女は透視能力者としてよりも、念写実験の元祖として心霊研究史上に不朽の名を留むべき人である」と評します。力量は千鶴子に及ばなかったものの、実験物に手を触れることも、福来に背を向けることもなかったため、この点が学術的研究の立場から千鶴子に優れる点でした。
・念写の発見
今までの実験は、名刺や白紙に書いた文字など誰の目にも見えるものだったため、目に見えないものを透視したらどうなるかと考えました。そこで、福来が考えたのは現像していない写真乾板でした。文字を撮影した乾板を現像すれば、その文字は誰でも見えますが、現像しないと誰も見ることができません。現像していない写真乾板を透視することができれば、透視の事実の強力な証明につながると考えたのです。
「高」の一字と「哉・天・兆」の3字を撮影した乾板を、現像しないまま光が入らないように密封して透視したところ、結果は的中します。この結果から福来は「霊能者は普通人で見ることのできない、現像せざる乾板の撮影物象をも透視し得るのである」と断定します。
また、この未現像乾板の透視実験の時、不思議な現象があったことに福来は気づきました。2枚の乾板を現像すると、2枚ともに甚だしく感光していたのです。感光とは、フィルムに塗布された臭化銀に光が当たって化学反応を起こすことで、多量の光があたるほど感光の程度も大きくなります。
この現象について福来は「念力が働いて感光現象が生じたのではないか」と予想し、もしそうであれば、「乾板に向かって円形または方形を念じれば、円形または方形に感光するのではないか」と考えました。
福来は「心」の一字だけを書き、念じこむ気になって精神統一するよう郁子に頼みました。
郁子は「心」の文字を1分ほど凝視し、次に眼を閉じ、しばらくして眼を開き、「何かわかりませんが、とにかく念じこみました。こんなに汗がでました」と言いました。
現像してみると、「心」の文字がはっきりとした形で現れませんでしたが、乾板の中央に局部的感光の現象が生じたことは確認できました。
次に、福来は黒丸を写すことを求めました。
郁子は精神統一し、次に眼を開いて、「確かに打ち込みました」と言いました。
現像してみると、輪郭は明瞭ではありませんが、円形の感光現象が起きていました(次図)。
さらに方形で試してみると、今度は極めて明確な方形の感光現象を示し、こうした結果から福来は念写の事実を確信します。
他にも、様々な形や文字で実験しますが、いずれも良好な結果が得られました。
千里眼事件
福来は念写を発表しますが、多くの批判を浴びることになります。
「私が一たび念写の研究を発表して以来、日本の学者、特に物理学者は驚愕し、念写など言うことは物理的法則に背くからという理由によって、これを詐術であると憶断したのであった。然るに、吾等はあくまでも念写の事実を主張して譲らぬので、大変な騒ぎを引き起こしたのであった」(福来)
そこで、物理学界の大御所、東京帝国大学元総長の山川健次郎が真偽を確かめるべく動き、長尾家に向かって実験を申し込みました。
長尾家は喜んで承諾しましたが、福来は「その結果は本当にバカげたものに終わった」と言います。千里眼実験が千里眼事件になってしまったのです。
・乾板がなくなる
実験当日の1月8日、一同が長尾家に集まります。
この日の顔ぶれは、郁子と夫の与吉、福来、福来の助手の源文学士、山川博士、藤教篤理学士、藤原咲平理学士、丸亀中学校の信原校長、菊池教頭といった人たちでした。
藤は、東京帝国大学の理科大学物理学科の講師で、同大学助教授である中村清二理学博士の指示で郁子を研究しに来ており、この日は山川の助手という立場でした。
藤原は、藤と同じ大学の大学院生で、後年、著名な気象学者となり、第5代中央気象台長(気象庁の前身)を務め、お天気博士として知られるようになる人物です。
中村も藤も千里眼に否定的で、そのため2人の後輩にあたる藤原も煽られていました。
念写の題は、山川健次郎の「健」の字と定められました。
郁子は例の如く念力を凝らしますが、1分5秒ほどした時のことです。郁子は激した顔で、「いくら光を出して健の字を押しつけようとしても乾板がありません。だから、山川さんは何か仕掛けをしていなさるであろうと思います」と言い出しました。
山川は「確かに乾板を入れた」と断言しますが、郁子は涙を流しながら「あまりに酷いなされ方」と言い、あくまでも乾板がないことを主張しました。
福来もあまりのことに呆れ果てていると、「藤原君プレートがない!」という山川の叫び声が聞こえてきました。
山川が箱を開くと、郁子の言った通り乾板がなかったのです。
一同が茫然として言葉も出せずにいると、藤が慌てた様子で席を立ち、一同に挨拶もせずに立ち去って行きました。与吉が「藤君は何のために立ち去りましたか」と聞くと、山川は「彼が箱の中に乾板を入れたので、自らあやふやに思って、探しに行ったのでしょう」と答えました。
福来は「誰が研究を妨害しようとしているのか」と怒り、一同が騒いでいると、しばらくして藤が玄関先に戻ってきました。藤は藤原を呼び、「乾板はあった。自分が入れたと思ったが間違いであったから、このことを先生につげてくれ」と言ったきり、そのまま立ち去っていきました。
このことを藤原が山川に伝えると、山川は驚いた声で「やれやれ」と言って立ち上がり、郁子の前に両手をついて白髪頭を下げて、「藤のような粗忽者を使って、奥様に対してすみません。健次郎はこの通り両手をついて御詫び申します」と言って謝罪しました。郁子は「あなた様のような方にそんなにして頂いてはすみません。間違いとわかれば、私も安心です」と言いました。
そして、山川は匆々として宿にしていた玉川楼に帰って行きました。
乾板を入れ忘れるという点に関して、実験に立ち会った人の間では外部に公表しない約束でしたが、藤がその日のうちに新聞記者たちにこの事実をもらしてしまい、しかも山川の意図によって故意に乾板を入れなかったのだと伝えました。
その後、事実ではないことを知った記者たちが、いったん新聞社に電送した原稿をあわてて取り消したという騒動がありました。
記者からこの顛末を聞かされた山川は、「新聞記者が本日の試験に関し、予がことさらに空箱を入れ、臨場したるよう長文の電報を東京・大阪に発し、その後、取り消しをなしたるを聞く。藤氏を呼び談ずる所あり」と藤を呼んで叱責しました。
藤の挙動を疑っていた与吉は真相を知るために、事件のあった当日、藤も泊まっていた玉川楼を訪ねています。
この時、藤は不在だったため、与吉は山川に聞きますが、山川は「藤がいないのでわからない」と言います。
藤は、翌9日も不在でした。
この一件から、福来は山川らを疑うようになりました。
「長尾氏夫妻は山川博士のような人格者の実験を受けることによって、世間から疑問視されている念写が真正なるものとして折紙をつけらるることと思っていたのに、その結果は前述の通り不始末至極であったので、不安と憤怒とに満ち、念写研究に対する山川博士一行の誠意を全然疑うようになった」(福来)
同様に与吉も、これ以上の実験は無理と判断し、玉川楼を訪問し実験謝絶の旨を申し入れます。
山川は玉川楼で記者会見を開き、実験経過と乾板を入れ忘れた出来事など、すべて公表しました。
会見を終えた山川は、即日丸亀市を立ち去ります。
この会見には藤と藤原、それに三浦恒介という京大生も顔を出していました。三浦は京都帝大の文科大学(後の文学部)の全学的な支援態勢のもと、文科大学心理学科の松本亦太郎教授の指示で千里眼研究に乗り出した人物です。松本は福来の先輩にあたり、透視の研究で注目を集めている福来に競争心を燃やしていました。
三浦は念写の事実を破壊しようと常に黒幕として動いており、たとえば次のような「前科」があります。
松本が三浦に郁子を研究するよう指示した時のことです。
長尾家では福来の研究を先に行っていたため三浦の研究を断りますが、面目が立たない三浦は泣いて頼んで何とか実験させてもらいました。
それにもかかわらず、三浦は郁子の頭脳から新放射線を発しているとして、大学の承認を得ずに勝手に「京大光線」と称して新聞記者に発表するという暴挙に出ました。
その後、長尾家との間に悶着があり、与吉の不興を買って出入り禁止となり実験ができない状態になっていたのです。
・藤の訪問
10日午前、福来が長尾家を訪問して談話していると、女中が「藤さんと藤原さんが暇乞いにおいでになりました」と伝えてきました。
与吉は、「藤はあれほどの騒ぎを引き起こしながら、8日の日にあわてて逃げ帰ったまま、その後一度も俺に面会してことの真相を打ち明けない。今、突然暇乞いして去らないとはあくまでも不届きな奴じゃ」と激昂しました。
そこで藤原を呼び、「聞きたいことがあれば、藤さんにちょっと来るように伝えてください」と言いつけました。
藤原はこのことを藤に伝えるために玄関に行きますが、しばらくして藤原が1人で戻ってきて、「汽車に乗り遅れるから、これにて失礼します」という藤の返事を伝えました。
これに対して与吉は怒り、「無礼な奴」と言って立ち上がって玄関まで行き藤と対面します。
藤は「乾板のことは自分の粗忽であった」と、そのことだけ一言謝罪し立ち去って行きました。
・嘘八百のマスコミ
山川が乗り込むことで世間の関心はより一層高まりましたが、このような粗末な経緯があったにもかかわらず、当時のマスコミは嘘八百の記事を並べたてました。
特に大阪時事新報は酷く、「千里眼の正体ついに現る」という見出しで次のような事実無根の記事を報じました。
「千里眼夫人の夫、長尾与吉氏は久しく郁子の透視なるものについて注意したるが、博士の実験ついにその功を奏し、郁子の千里眼なるもののまったく価値なきのみならず、これがため人心を惑はしむるの大なるを愧ぢ、9日午前、博士をその旅館玉川楼に訪問し、将来郁子をして一切千里眼の透視透覚を行はしめざるを誓い、郁子もまたこれに同意せる旨を告げて帰宅したり」
山川はこの記事を見て驚き、早速、取り消し請求の書面を時事新報社に送りましたが、社ではついに取り消し文を出しませんでした。
しかし、心中では悪かったと思ったと見えて、11日に社から2人の役員が長尾家に詫びに来ます。
この虚偽の記事は、三浦恒助が特派記者の森川という人物に知恵をつけて書かせたものでした。
また、丸亀で知り合った藤と三浦は意気投合し頻繁に情報交換をするようになり、千里眼批判への作為的な情報を新聞記者たちに流しました。
福来は言います。
「しかし、このような実際の内情は一般世人にはわからない。世人は新聞記事に欺かれて、長尾夫人が山川博士に千里眼の詐術を見破られて、再びこれを行わぬことを誓ったものと信じていた」
このため福来は後日改めて実験しますが、今度は実験中に泥棒が入るという事件が起こります。
試験物を盗み、「カクレテイタスト イノチハモラッタゾ」という内容の脅迫文を残す悪質なものでした。
福来は、「山川博士の実験以来、奇怪なる事件続発して、長尾夫人も不安を感じたるがため、一先ず実験を休みたき旨を告げた」と、後日の実験を約束し中止しました。
・藤の釈明会見
一方で、無責任に乾板を失念した藤を指弾する声も高まっていました。
たとえば、万朝報は藤について、「かかる人はふたたび学者として責任ある任務に従事するに耐えざることは明らかなり。今後のために制裁するところあらんことを望むなり」と批判しています。
1月16日、藤に指示を出していた中村は学者声明を危惧し、藤に急遽、釈明会見を開かせます。ちなみに中村は、自ら千里眼実験を行ったことは一度もありません。
会見で藤は「私の過ちによって不成功に終わったが、このために怪しむべき点はいろいろ発見されたのである」と手柄顔に強弁し、郁子の念写は手品であると断言しました。
この会見の内容を知った郁子は次のように激怒します。
「私は藤さんの実験を一度もしていませんのに、どうして詐欺だの手品師だのというのでしょう」
「紙型を当てがってラジウムとかでやるのではないかと疑っているのですけれども、私はラジウムなどというものは今まで知りません」(物理学者などが、念写はラジウム放射線によって人工的に作り出した詐術であると言っていたため)
「この上はぜひ皆さまの力で藤さんを呼んでください。しかし、藤さんが参ります時、短刀を持参して来てくださるように願います。私も懐剣を用意してお目にかかり、今村さん、福来さん、山川さんを始め、その他疑っている人と信じてくださる人との立会いを求めまして、その前にて藤さんの実験と私の実験とをやって比べてみます。藤さんは作ればできるというのでありますから、10分か20分の間あれば、その通りやって貰い見せて頂きます。その上にて私もやります。もう何も申す必要がないのですから、実際やってみるのが一番です」
「いずれか実験に負けたる者は見事腹を切って果つることにしましょう。実験に際して、その約束を契約書で取り交わしましょう。藤さんも男児ならば、この立会実験に来るべきです」
この時の学者に対する怒りを、長尾家は次のように詩で表現しています。
「看破せんとてかんばんの、なきを透視で看破され、陣笠学者はアワテ出し、東の空へ逃げて行く」(郁子)
「テーブル学者の浅智恵で、看破されしを残念と、口惜しまぎれの悪口は、自分の馬鹿を広告す」(娘の愛子)
「井戸の中なるヒキガヘル、見たよな学者がガヤガヤと、騒いで見たとて天地の、大なることは分かりやせぬ」(与吉)
・千鶴子の自殺
この報道を熊本の御船千鶴子も知り激怒、郁子に同情し、自身の透視も手品であると報じた新聞もあったため、悲しみと怒りに気をふさいでいました。
これが引き金となったのか、知った翌日(1月18日)に千鶴子は服毒自殺をしました。25歳の若さでした。
「最初の千里眼婦人として誰もその名を知らぬ者がないほど有名な女」(東京朝日新聞)の自殺に日本中が驚きました。
多くの学者の前で堂々と実験ができるように訓練しようとしていた矢先のことに、福来も大きな衝撃を受けました。
千鶴子の自殺理由についてはいくつか考えられていますが、千鶴子の義兄は、中村が「時々開封した形跡がある」などと詐欺師の如く罵倒した新聞の批判記事が一因ではないかと推測しています。記事を見た千鶴子は、その新聞紙を力を込めて突きやり、「兄さん、どこまで研究してもダメです」と憤慨し、この翌日に自殺したといいます。
・千里眼実験録
千里眼事件から38日後の2月15日、藤と藤原は「千里眼実験録」を出版します。
本の中で、「理学士・藤教篤君を罵る聞きて、遺憾に耐えず。義として微力を顕正に致さんと、決心せしに依るなり」と書かれているように、この本は藤への批判が高まったために出版されたものでした。
この本を彼らが出版した動機について、福来の生涯を綴った本「透視も念写も事実である 福来友吉と千里眼事件」の著者である寺沢龍は次のように言います。
「世間での藤教篤に対する批判と悪評が高まり、学者としての信用失墜の怖れにおびえて、あわただしく作られた釈明本であり、丸亀での乾板入れ忘れ事件が起きてから、わずか38日後の出版である。(権威をつけるために、巻頭には山川が藤にあてた書簡を掲げてあるなど)すべて東京帝国大学理科大学に属する学者たちによって、その後輩の藤教篤を擁護するための陣立てとなっている」
また、藤らの責任で実験ができなかったにもかかわらず、「実験はついに何者かのために不快を懐きて中止するの止むなきに至らしめられたり。実に遺憾の極なり」と被害者の立場をとり、「千里眼一たび世に出でて天下その真偽に惑い、奸催眠術者の徒たちまちに跋扈を極め、迷信を助長し暴利を貪り思想界を擾る。悪まざる可けんや」と正義の士を気取っています。
肝心の本の中身ですが、福来も「その全編が『念写は詐術なり』という憶断の色に染められて、読者をしてそう思わしめるように筆を廻している」と言っているように、終始、詐術であると言わんばかりの内容になっています。
たとえば、次のような記述があります。
「いわゆる精神統一を妨ぐる条件と称せらるるものは、手品を使用し得ざる条件と、非常によく一致していることなり」
「鉛板の型を当て、感光せしめたるものによく似たることなり」
「山川博士等と共に厳密なる実験を行い、長尾夫人の透視および念写は共に疑うべきものなり、と断定せり」
「千里眼の自然消滅を欲したる」
福来は、次のように千里眼実験録に対してまったく相手にしませんでした。
「該著は、結局、藤、藤原両理学士の粗忽と不忠実とを広告したるだけのことで、それ以外には何らの学問的価値を有せざるものである。余は、この忙しい世の中において、斯かる無価値なる研究結果につきて、真面目になって批評するような無用の時間を有しておらぬ」(福来)
念写実験を取材した東京朝日新聞の記者も次のように批判しています。
「この書によって千里眼あるいは念写作用等につき寸毫も得るところはなけれど、日本の物理学者なるものがいかに陋劣なる心事を有せるかを透視するには恰好の著述たるを疑わざる」
「吾人は今日まで山川理学博士を信ずること極めて深かりき。そは物理学者としてにはあらずして全く人格の崇高なる人との意味なりしなり。しかれども丸亀における博士の態度は全く吾人の予想に反したるを遺憾とす。たとひ山川博士は己の本意にあらずと弁明するも、その助手たる藤理学士は一回の実験さえせずして、さも多くの実験を経しものの如き口吻にて非科学的断案を下し、また同じく助手たりし藤原理学士は山川博士黙認のもとに郁子を欺きたりと公言して憚らず。学者の本領が人を欺きて満足し得べきものにや。門外漢たる記者等は想像だに及ばざるところなり」
「要するに、千里眼問題はまったく千里眼そのものの問題にはあらずして、尻の穴の小さき学者たちの排他思想の紛乱なり」
千里眼実験録に対して、与吉は「山川博士の実験に対する意見」と題する小冊子の中で、「その要旨とするところは、誣言曲筆もって余一家の名誉を毀損して、われの能力の信用を破壊せんとするにあるものの如し」と怒りの反撃をしており内容は東京朝日新聞にも掲載されました。
「実験録と称しながら、実験者が乾板を入れ忘れたために肝心の実験ができなかった記録であり、その中身は当時の新聞などにも酷評された如く、科学者の報告書らしからぬ情緒的な憶断と推測で成り立っており、著述者の品性の低劣なることもさらけだしている」(寺沢)
もっと言えば、郁子を陥れるためにわざと入れなかったのではと限りなく疑える状況です。
「この人が丸亀での実験当時に置かれた状況とその心理状態を考えると、私は直感的に彼の挙動に疑いを持っている。あからさまに言えば、乾板は『入れ忘れた』のではなく、彼の当時の言動と状況から推察すると、彼なりの思惑によって乾板をあえて『入れなかった』のだとさえ思えてくる」(寺沢)
「なぜ、藤教篤は乾板をセットし忘れたのか?物理学者ともあろうものが、肝心の検出の要である乾板を忘れることなど、通常はありえない。もし、本当に忘れたのだとすると、物理学者としての素養が疑われるし、万が一、故意にセットしなかったのだとすると、念写実験が終わったあとで、『あ、乾板を入れ忘れました。でも、念写したんですよね?乾板がなかったことに気づきませんでしたか?』というつもりだったのではないかと疑われてもしかたあるまい。(中略)私は、藤教篤は、念写をインチキと決めつけ、それを暴く意図で、故意に乾板を入れ忘れたのだと思う」(竹内薫/科学作家)
・郁子の死
それまで丸亀市民から神仏の如く尊敬されていた郁子でしたが、千里眼事件以来、世間の批判が高まり、一夜にして犯罪者の如く見られるようになりました。
児童らからは「ラジウム」というあだ名をつけられ、外出すれば石を投げられたといいます。
そして、千鶴子の死から1か月ほど後の2月26日、郁子も病気のために死んでしまいます。39歳でした。
当時の朝日新聞は次のように報じました。
「山川理学博士一行の実験に応じたるため、世間に誤解せられ、昨日までは神仏の如く丸亀市民に敬せられしが、一朝にして蛇蝎の如く取沙汰せられ、ついに児童等により『ラジウム』なるあだ名を付せられ、外出すれば石を投ぜらるるに至れりと云ふ。その末路は寧ろ気の毒なりしなり。かくて郁子の千里眼及び念写は、嫉妬深き一部学者の非科学的実験により世に葬られんとすると共にその身は没した」
次のように、郁子は殺されたようなものだと言う人もいます。
「長尾夫人の死は、単なる病気とは私は思いません。わずかな傍杖を喰らった千鶴子でさえ、毒を仰いで自殺した程の大事件です。問題の中心である長尾夫人に、たとえ、どれ程の修養があり、いかほどの女丈夫であるとした所で、思い詰めた無念と憤怒とが、その体に無関係であろうはずがないです」
(山本健造/飛騨福来心理学研究所創立者)
郁子がいかに批判に耐えていたかは、次の彼女の辞世の句からも伺えます。
「ななへやへうきたつくもをかぜのきて、つきのひかりをいつかみるらむ」
「さばへなすしこのしこをさわぐとも、わがまごころはしるひとぞしる」
郁子の死を知った福来はこう言います。
「夫人はますます能力を磨いて、反対学者と戦うことを企てていたのであったのに、ついにその目的を果たさずして倒れたのであった。実に惜しいことであった。しかし夫人が心霊研究界に残した功績は、永久不滅のものとして伝わりいくのである」
福来の能力者に対する目は厳しく、十分研究に値すると認めた能力者は生涯で数人だけです。その中の2人が千鶴子と郁子であり、学術的研究を重視していた福来にとって、生きた証拠であった2人の死は相当な痛手でした。
「千里眼なるものは千鶴子、郁子の2人のみには限りませんが、あの2人はともかく一番能力のよく発達していた者ですが、かく2人とも亡くなってはもう万事休すといわねばなりません」
(福来)
千鶴子と郁子が死ぬと反対学者は喜び、世人は「千里眼をやるものは皆死ぬのであろう」などと騒ぎ立てました。
郁子の死から1年1か月後に与吉も病気で死んでしまいます。
千里眼実験録に対してまったく相手にしていなかった福来でしたが、福来は著書「透視と念写」の中で小冊子の内容を掲載しています。福来が研究録を発表する時には、ぜひこれを付録として書き加えてほしいと与吉から懇願されていたためであり、また長尾夫妻が藤らによって世間から詐欺師呼ばわりされていたためです。福来は言います。
「長尾夫妻の霊よ。余の微衷を諒として、幾分の慰籍を得らるるならば、余の満足之にすぎぬのである」
以上、千里眼事件について簡単に説明しました。
登場人物は映画「リング」シリーズのモデルにもなったようなので知っている人も多いでしょう。
真実であれば大発見、詐術であれば大事件という日本中が注目していた実験です。
日本の超心理学の遅れの原因を辿っていくと千里眼事件があるため、もしこれから超心理学が発展して肯定的に受け止められるようになれば、それに比例して藤らの悪名も高くなっていくのではないでしょうか。
心は脳以外にある
従来の心理学は、記憶について次のように説明しています。
1.過去は消滅し、ただその経験の一部分だけが記憶として残る
2.記憶は脳髄皮質中に保持されてある
3.記憶は不完全なものである
これが心理学の常識であり、世間の常識となっていますが、福来が提唱する記憶説は次のように真っ向から反対しています。
- 過去経験(記憶)は不滅である
- 過去の経験は、脳髄皮質中に保持されているものではなく、霊魂そのものの中に完全に存在している
- 脳は、過去経験を貯蔵する器でなく、過去経験を再現させる喚想機関にすぎない
- 記憶と喚想とはまったく別物である。喚想は脳の活動によって完全・不完全の別があるが、記憶そのものは喚想の完全・不完全によらず常に完全である
- よって、脳は消滅しても、過去経験は依然として存在している
このように、福来の記憶説は一般の学説とはまったく異なっていますが、これは福来の長年の研究から導きだしたものです。
催眠実験中に、赤ん坊の時など被験者が普通の場合では到底思い出されない過去経験が、ある心理状態中に完全に思い出される事実がたくさんありました。こういった事実から、喚想の可能・不可能にかかわらず、記憶そのものは完全であることを福来は信じていました。
それに加え、「心霊現象の研究によって次から次へと発見される多数の事実は、段々吾人の記憶説を証明すべく進み行きつつある」と心霊研究によってより確信し、いくつか事例を挙げています。
・武内天真の念写
福来は「念写の実験をしている時、霊媒の念写しようと思わぬ種々の物象が乾板に現れることがある」と言います。
そして、研究していく中で、それは霊媒の古い過去経験の現れであることがわかりました。しかも、霊媒自身はまったく忘れているのに、乾板の上には、それが精密に現れていたのです。
「その最も著しき事例」として、武内天真の念写を挙げています。武内は、自ら霊能者であると称して福来のもとを訪ねた人です。
福来は、武内が愛読していた大町桂月著「人の運」の扉にある「人の運」の3字を、3枚重ねの乾板の中央にある一枚に念写することを注文しました。
3字を3分間ほど凝視し、次に乾板に念じ、そして乾板を現像してみると、「人の運」の3字が鮮明に現出しました。
ここまでは福来が期待した結果でしたが、よく見てみると一面に小さい文字がたくさん出ていました。
驚きながらよく吟味してみると、それは本の扉の次のページに印刷してある桂月自筆の序文が写っていたのでした。しかも、文句も書体も実物とわずかな違いもありませんでした。
しかし、福来は「人の運」の3字だけ念写することを頼み、序文の念写は注文していませんでした。
福来が「君は大町桂月の書物の序文を読んだことがありますか」と尋ねると、武内は「一年ばかり前に2,3度読んだことを記憶しているが、しかしどんな文句が書いてあったか、いま思い出すことができません」と答えました。それにもかかわらず現れたことから、福来は次の結論を導きます。
「この念写は、その時における武内氏の観念の創造ではなく、一年前の過去の念そのものが直接乾板上に現れたものと見ねばならぬ。すなわち一年前に経験された念の過去相がそのまま完全に存続したものと言わねばならぬ」
「つまり、喚想の可能・不可能にかかわらず、記憶が完全に存在している、という吾人の理論は、この実験によって証明されたわけである」
・霊魂不滅
エネルギー保存則などを考慮し、福来の記憶説から導かれる結論は死後の魂の存在です。
「霊魂常住論、並びに過去不滅論から生ずる必然の結論は霊魂不滅の思想である。霊魂は肉体の死後、その個性を具えたままで永遠に常住するものである」(福来)
この新しい記憶説を提唱しているのでは福来だけではありません。たとえば哲学者のベルグソンは著書「物質と記憶」の中で次のように述べています。
A.脳は記憶の貯蔵器にあらずして、記憶を呼び出す機関にすぎない。
B.喚想は不完全でも、記憶そのものは完全である。
これは、福来の記憶説の3.4と一致します。
そして、ベルグソンは「肉体の滅びた後に魂が生き残ることを私たちは自然だと思うようになる」と言います。
「心は脳以外にある」と主張する人は他にもいます。
脳の機能地図を作り上げたことで知られる脳外科の世界的権威、ワイルダー・ペンフィールドは「精神とは脳の活動が生み出すものでしかない」という唯物論の命題を証明しようとしましたが、意に反して次のような結論に至っています。
「私は研究者としての生涯を通じて、他の科学者と同じように、心は脳の働きで説明できることを、何とかして証明しようと試みてきた」
「長年にわたって努めた後で、人間は2つの基本的な要素から成るという説明を受け入れるほうが、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った」
「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える」
「心は、それ自体、基本的な要素と呼ぶべきものである。霊とか魂とか呼び方はいろいろあろうが、要するに実体のある存在なのだ」
スエデンボルグ、ベルグソン、福来、ペンフィールドと、各分野の碩学が別々のアプローチから同じ結論に達しているという点は注目に値します。
・肉体は能力を制限する
福来は「心霊学の根本原理」として「外界事物は感覚器官や神経系統の働きによらずして知覚され得る」と言います。
これはつまり、「人は眼によらずして見ることができる、耳によらずして聞くことができる、鼻によらずして嗅ぐことができる、舌によらずして味わうことができる、手を伸ばさずして物に触れることができる」(福来)ということを意味します。
もちろん、この結論もこれまでの実験を踏まえて導いたものです。
そして、いつも見ているこの世界は、肉眼で見ているのではなく、「天眼」で見ており、肉眼は見る器官ではなく天眼の視野を制限する器官だといいます。天眼とは仏教用語で、あらゆるものを見通すことができる眼とされています。
「眼によらず見る働きが天眼、耳によらずして聞く働きが天耳で、各種の仏教経典に記載されてある」(福来)
つまり、天眼がその能力をすべて発揮すれば、宇宙はもっと広大に見えるところ、肉眼で制限されて狭くなっているのだと言うのです。
この肉体による制限は、眼に限らずすべてにいえると福来は言います。
天耳で世界の音を悉く聞くことができるのに肉体で制限されて一部の音しか聞くことができず、また、他心通によって人間の心を悉く知ることができるのに肉体の制限の結果、言語、文章、行動などの媒介を頼らないと人間の心を知り得ず、また、いかなる場所にもいかなる時にも幻化自在であるのに制限されて物理的法則に従わなくてはならない、という具合です。
では、どのようなものを選び取っているかというと、福来は「身体の生存に有利なものを取り、有害なものはこれを避けるよう運動する」と言います。
そして、「結論において吾人とまったく同一の見解を抱くもの」として、これもまたベルグソンを挙げています。
「その役目は物象全体の中から、私の捉えることができないすべてのものを除き、そして私の捉えたものの中から、私の身体と称する物象の要求に関係をもたないすべてのものを除き去ることである」
「脳は注意を生に固着させ、意識の領域を有効に縮めることだ。過去を思い出せないのは、脳の機能が過去を隠し、今の行動に役立つものだけをいつも見せるようにすることだからである」
(ベルグソン)
ちなみに、同年代にチャーリー・ブロード(ケンブリッジ大学教授)という哲学者も次のように言っています。
「人間はどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生じることはすべてを知覚することができる。脳および神経系の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが圧し潰され混乱を生まないように守ることであり、放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を締め出し、わずかな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである」
観念は生物なり
観念とは、心に思い浮かべた像をいいます。
たとえば、心で「りんご」を思えば、心の中にりんごの像が浮かんでくるという具合です。
福来は、次の3つの理由から「観念は生物である」ということを一貫して主張しており、これが福来研究のエッセンスとなります。
「『観念は生物なり』の思想は今も不変であるし、あれが私の終生の原理である。あれだけは今日でも非の打ちどころがない」
(福来)
・観念は要求
まず、観念は自ら現れようとする要求をもったものであると言います。ここでは、その根拠となる事例を2つ挙げます。
1つは、千余名の人が集まった長野県伊那郡教育会の主催による、超能力者・三田光一の公開念写実験です。
三田は天性の能力者で、地元である宮城県気仙沼では、子供の頃から「魔法使い」と噂されていました。透視能力者としては千鶴子よりずっと以前から世間に知られており、長尾郁子の実験を伝え聞いてから念写をやり出しました。三田の能力は非常に高く、福来は「日本最高の超能力者」とまで称賛しています。
実験の題目は、集まった人の希望により島津五六と中村七五郎の肖像の2枚と決まりました。
念写を行い現像してみると、1枚には中村七五郎の像が出現し、もう1枚には島津五六ではなく、代わりに上杉謙信の像が出現していました。
まったく意図しない上杉謙信の像が出現したことについて福来は、この実験の6日ほど前に三田が武田信玄の念写をしたからであると言います。私たちは上杉謙信と武田信玄の2人が対立関係にあることを知っており、武田信玄といえば上杉謙信という具合に、2人を1セットで覚えています。武田信玄が念写されたため、対立関係にある上杉謙信の観念が出現の要求をもち、今回それが念写されたというのです。
もう1つの事例は、長野県飯田町の有志が三田を招いて行った念写実験です。
実験の題目は、長野県の烈婦(節操や信念を貫き通す気性が激しい女のこと)として尊敬を受けている山口不二子の像を乾板の5枚目に念写し、彼女の辞世の歌を3枚目に念写することになりました。
結果は、5枚目に山口不二子の像、3枚目に辞世の歌がそれぞれ出現しましたが、その他に松尾多勢子の像が6枚目に出現していました。
松尾多勢子は、山口不二子と並び称せられる長野県の烈婦です。つまり、山口不二子の観念と対立関係にある松尾多勢子の観念が、自ら活動して出現させたというのです。
・観念は力
次に、観念は力であると言います。
光をあてないと感光現象は生じませんが、念写は光をあてることなく感光させているため、観念が光と同じように力(エネルギー)があるということです。
・観念は空性
そして、観念は空性、つまり空間を超越する性質があると言います。
たとえば、重ねられた多数の乾板の中で、特定の1枚にX線やラジウム線、光線といった物理的放射線をあてようとすると、前後の乾板にも影響を与えます。つまり、前から放射線がくれば前の乾板にもあたり、後ろからくれば後ろの乾板にもあたるという具合に、中央の乾板だけにあてるということは物理的放射線ではできないことです。
それに対して念写は、前後の乾板に関係なく、選択した1枚にだけ作用させることができます。
また、観念が空性であることは、三田光一の月の裏側の念写実験を見てもわかります。
この実験は、三田が神戸・須磨にある自宅から、約40キロ離れた大阪・箕面にある福来の自宅に設置された乾板に、月の裏側の姿を念写するというものです。
昭和6年6月24日の午前8時20分、福来は乾板を2枚収めた箱を自宅に置き、8時30分に三田が乾板に向かって念を送りました。念写が完了し福来が乾板を現像してみると、丸い形をした月の裏面と思われる像が現れていました。
しかし、誰も月の裏側を見たことがないので、これが本当に月の裏面像なのかどうか、当時は誰もわかりませんでした。
ところが、福来の死後、アメリカのアポロ宇宙船から撮影した探査写真をもとにNASA編集の月面地図と月球儀が作成されます。この月面地図と月球儀をもとに東京大学の後藤以紀教授が解析した結果、三田による月の裏側の念写像は、月の真後ろより少し斜め上向きの写真図形とほとんど一致するとの結論を発表しました。
また、その後の研究ではさらに精密になり、たとえば、より正確に明らかになった月の裏側の地形と比較して、約80%において完全に一致、残りの20%がノイズ(無関係データ)という結果も発表されています。(佐々木康二著「『月裏念写』の新しい数理解析」より)
誰も見たことがない月の裏側を見て、さらに40キロ離れた乾板に念写したという結果は、三田の観念が実際に空間的規定を超越して働いたことを意味します。
「透視の場合でも念写の場合でも、吾人の念力は前にある金の壁でも、石の壁でも、これを無いと思って全然空じ終われば、それを超越して透視したり念写したりするのである。これに反して、もし有ると思えばそれが透視の働きを束縛して一枚の薄紙の向こうもわからぬようになる」(福来)
「生物」の定義は今でもはっきりしていませんが、福来は以上の3点から観念が生物であると表現しました。普通の有機体の生物と混同されやすいですが、その活動から生きていると言ったのです。
心霊写真
福来は心霊写真を撮影するためには、次の条件が必要だと言います。
「心霊写真の撮影には、写真機のほかに、霊媒というものがなくてはならぬ。霊媒とは霊の媒介者ということで、幽霊はこの者の仲立ちによって乾板の上に現れると解釈されている。そして、写真師自身が霊媒であることがある。その時には、何人でもその写真師に写真を撮ってもらえば、乾板に霊の姿が現れるのである。また、被撮影者が霊媒であることがある。その時には、その人が何人に写真を撮ってもらっても霊が現れるのである。また、第三者が霊媒である場合には、その人が撮影場にいると、霊が現れるのである。要するに、霊は自分自ら直接乾板に現れないで、必ず霊媒の仲立ちを通じて現れるものとなされている」
・マムラー
まず、「心霊写真師の元祖」として米国ボストン市のマムラーを紹介しています。
マムラーは、心霊現象の研究者でも写真師でもありませんでしたが、自分で自分の姿を撮影したところ従兄弟の姿が写っていたという人で、このことが世間に伝わるや心霊現象の撮影を注文する人が続々とやってきました。
多くの心霊写真を撮影しましたが、その中でも有名なのがリンカーン大統領の心霊写真です。ある日、リンカーン未亡人がヴェールで面を隠し、チンダル夫人という仮名でマムラーを訪問し写真を撮ってもらったところ、彼女の肖像の後ろには、その肩に片手をあてて立っているリンカーンの姿が現れていたのです。
心霊写真は人工的に撮影されたものであるという理由で、マムラーは反対者に裁判に訴えられてしまいますが、多数の証人が続出して彼を弁護したため、結局不起訴となって事件が落着しました。福来は「このことが心霊問題に対する世人の信用を喚起するのに大変有力なものであった」と言います。
・ホープ
マムラーの後、大小多数の霊媒が続出し、世の非難攻撃と戦いつつ心霊写真の実験を続けていきます。
その中において、福来は「現代の英国において、最も信用すべき霊媒として心霊研究者から公認されているもの」としてウィリアム・ホープを挙げています。ホープは20歳ぐらいから心霊能力を世に認められるようになった人ですが、福来はホープを次のように評価します。
「初めて霊媒として名乗り出てから、もう40年を超えているわけであるが、その間に厳重なる監視のもとに、あらゆる学者紳士の心霊写真を撮影して、いまだかつて一度たりとも怪しまれるような欠点を見せたことがないのである」
ホープを研究した人の中に、英国王立協会会長のサー・ウィリアム・クルックスがいました。クルックスは化学の大家として世界的に有名で、新金属元素タリウムの発見や、陰極線の研究で知られます。
クルックスはサイキック・ガゼットという雑誌上に、その実験結果を発表して、ホープの霊媒能力を次のように証言しています。
「私はクルー市に赴き、私の写真を撮ってもらった。私の姿は大変よく写り、そして同じ乾板の上に、私の亡き妻の姿が、私のすぐ側に現れていた。撮影の時、私の側に何人の姿も見えなかった。ロンドンから同行した婦人の眼にも、何物も見えなかった。写真に現れた姿は私の妻を知れる限りの者は、家族親類以外の人々までも、彼女の姿に相違ないと証言したのである」
クルックスの発表を受け、ホープの霊媒として真価も認められたのです。
福来自身もホープについて2回実験をしています。
ロンドンで手札型の乾板を買い、友人の山本憲一と一緒にクルーにいき、ホープを訪問しました。ホープとホープの助手であるバックストン夫人、山本、福来の4人で実験を行い、その流れを説明しています。
「私は乾板をもって、ホープ、山本の両氏と一緒に暗室に入った。私は乾板の封を切り、その中から2枚を抜き出し、これに署名し、スライドに入れた。残りの4枚は包装紙に包みてポケットの内に保管して置いた。
それから、われら3人は暗室を出て写真撮影場に出た。ホープ氏は写真機を一定の位置に据えてから、それを調べることを私に求めた。私はまず、レンズを取り外して調べてみた。次にカメラを調べてみた。もちろん、微塵も怪しむべき点がなかった。
それから、私はスライドをカメラに嵌め、そして椅子に腰かけて写真を撮る用意をした。ホープ氏は左手をバックストン夫人に触れ、右手でレンズの蓋を取り、その手を額にあてて精神統一を行った。山本氏はホープ氏の傍に立って、注意深くその挙動を見守っていた。それがおよそ5,6秒も経ったと思う時、ホープ氏はレンズに蓋を被せて、実験の済んだことを告げた。私はスライドを裏返しにしてカメラに嵌め、今一枚の乾板につき、右と同一の手続きによって実験を行った。これで、スライドに入れた2枚の乾板の実験が済んだわけである。
そこで私は、ホープ、山本の両氏と一緒に暗室に入り、スライドから乾板を取り外してポケットの内に保管し、別のポケットから乾板の包みを出し、その中から2枚を抜き取り、これに署名してスライドに入れた。それから私は写真撮影場に出て、前述の手続きを反復して実験を行ったのである」(福来)
このようにして、計4枚の乾板について心霊写真の実験が行われました。
福来がホープ、山本と一緒に暗室に入り、写真を現像してみると、最初の2枚には福来の姿が写されただけで、その他には何も現れていませんでした。
しかし、後に実験した2枚を現像してみると、2枚共、福来の頭の上に西洋夫人の顔が現れていました。
「2枚共に同一の婦人の顔であるが、一枚のほうには左向きに現れ、他の一枚には仰向きになっている。そしてさらによく調べてみると、私の左の肩の辺りにも若き女子の顔が現れている。これは正面に向かっている。また、私の頭の上方には崩れた煙のようなものがある。これは私の頭の上にある夫人の顔が回転運動した結果だと思われる。このようなことは心霊写真にはよくあることである」(福来)
2回目の実験も同様の手続きで、2枚の乾板で行われました。
現像してみると、一枚は無結果でしたが、もう一枚には横向きの男の顔が現れていました。
この男の顔の上には左文字で、「Je connais ce,monsieur」とフランス語の文章が写っています。これは「私はそれを知っている。君よ」という意味です。
これらの実験は福来を満足させるものでした。
「以上の実験によって、私は長らく西洋の書物で読んだことのある心霊写真というものを目の当たり見ることができて、本当に満足であった。同時に、目の当たり実験してみれば、何らの怪しむべき点もないこの心霊写真を、既成科学の理論で説明できぬからとの理由で、詐術だの、ごまかしだのと臆断している学者連の思想の浅薄さと了見の狭さとを冷笑せずにおられなかった」(福来)
超心理学へ
心霊研究は「ハイズビルの幽霊屋敷」と通称される事件から始まったといわれています。
この事件について福来は、「ラップを発したものはいかなる霊であったかが突き止められ、かつ今日の心霊研究の端緒を開いたという点から、心霊研究史上に重要なる位置を有している」と言います。
・欧米の反応
欧米でも、「ハイズビルの幽霊屋敷」の事件後、心霊現象について賛否両論がありましたが、真面目に心霊現象を研究する学者も現れました。
特にウィリアム・クルックスを動かしたことが大きな転機となりました。彼は、フローレンス・クックという女性霊媒師と、彼女が現したケイティー・キングと自称する物質化された霊を調査、その研究結果を科学雑誌に発表し、「私はこれらの現象が可能であるというのではない。これらは存在しているというのである」と結論づけました。
すると、欧州中の科学者がクルックスを罵りました。クルックスの厳重な研究によって心霊現象が詐術であることが証明されるだろうと期待していたからです。
しかし、心霊現象に対して生涯を貫き通したクルックスの真撃な姿勢は、多くの科学者を動かしました。たとえば、パリ大学のシャルル・リシェ(1913年ノーベル生理学・医学賞受賞)もその一人でした。
「世人は、クルックス氏をただ冷笑することで満足していた。私もその片意地な盲目者の一人であったことを、恥ずかしながら告白する。科学者の勇気を称賛することの代わりに、私はそれを笑ったのだった。今日となってクルックス氏の業績が本当に理解されるようになったばかりである」(リシェ)
リシェは「エクトプラズム」という言葉を生み出し、「不合理である。しかし、真実である」という言葉を残したことでも有名です。
そして、1882年、クルックスが50歳の時、英国のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学の超心理研究会を中心にしてロンドンに心霊研究協会(SPR)が設立されます。
初代会長にはケンブリッジ大学哲学科教授のへンリー・シジウイツクが就任し、その後は、アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英国首相)、ウィリアム・ジェームズ(心理学者)、ウィリアム・クルックス(化学者)、オリバー・ロッジ(物理学者)、シャルル・リシェ(生理学者)、アンリ・ベルグソン(哲学者)等々の一流の学者が会長の任に就き、心霊研究の発展に尽くしました。
また、デューク大学教授のジョゼフ・バンクス・ラインは超心理学協会を設立、1969年に米国科学振興協会(AAAS)に加盟します。AAASは世界で最も大きい科学組織であり、第一級の科学論文誌サイエンスの発行母体でもあります。この加盟について、ラインセンターに客員研究員として滞在したこともある明治大学教授の石川幹人は「これは形式的には、超心理学が正統的な科学として認知されたことを示す」と言います。
ラインは世界で最初にこの分野の研究を科学的に証明した人とされており、超心理学という言葉を広め、「超心理学の父」と呼ばれています。
・日本の反応
ロンドンのある記者は、福来の置かれた立場とクルックスのそれと比較して「研究結果は、自分自ら現象を研究しようと思わぬ伝統的科学者によって、反対され、そして嘲笑された。人情は同じ、西でも東でも」と言いました。
しかし、その後の展開に大きな違いがありました。
福来の研究は妨害の連続で、特に千里眼事件以来、否定する学者の活動が活発化し批判は激しくなりました。
「私が念写研究の結果を社会に発表するや、日本中のほとんどすべての学者が一緒になって私を攻撃したものである。そのうえ、私の研究を破壊しようと企てた悪党なども現れて、ずいぶん私を窮地に陥れたものだ」(福来)
その後、大学での研究に適さないとの理由で福来は休職を命じられますが、この休職規定は一定期間の経過後、自動的に退職扱いとなるもので、事実上の追放でした。
福来は、東京帝大文科大学の学長である坪井九馬三の自宅に呼ばれ、「君が大学の教員として透視や念写を研究すると迷信を喚起するから大いに困る」と言われたといいます。
また、日本最初の心理学者で福来の師でもある元良勇次郎からも、「千里眼問題に対する君の考えは、大学諸教授とは非常に相違しているから、それを研究するには一時学校から離れてやったほうが君のためにも、学校のためにもよい。君の今の研究は心理学者による同情がない」と言われてしまいます。
大学を追い出された当時の心境について福来は、「つまり、私は日本の学界から放逐されたようなものであったのです。その時の私の心持と言ったら、言葉に絶した悲しみと寂しさで一杯でありました」と振り返っています。
この追放に納得できない人は少なくなく、たとえば生物学者の中沢信午(山形大学名誉教授)は、「公務に怠慢でなく、公私混同もなく、詐欺師でもなく、えてして詐欺や迷信の横行する心霊現象に、手を染めたというだけで・・・・」と憤ります。
福来に限らず心霊研究肯定派への風当りは悪く、たとえば、与吉は上司から、「身いやしくも司法官の職にありて、かくのごとき問題に関係することは面白くない」と訓戒を受けていました。
一緒に研究を続けてきた今村新吉も離れていくなど、福来は孤立無援となってしまいます。
こういった流れがあって、福来友吉という稀有な超心理学者がいたにもかかわらず、日本では迷信として排斥してしまい、欧米と大きな違いが生まれたのです。
「日本ではじめて心理学の博士号を取得した福来友吉が、御船千鶴子らの実験を行って、前述したように東京帝国大学を追われた。ここから日本における超心理学の『封印』がはじまったと言ってよい」(石川幹人)
「イギリスではスピリチュアルセラピィによる治療が病院で行われています。また、霊的先進国のロシアでも実際に患者を透視して霊的治療が行われております。しかし日本では昔、東京帝国大学が福来友吉助教授の念写や透視の実験を批判して以来、研究者は霊的問題をタブーとしてしまい、それが今でも後遺症として残っており、霊的な問題に対する研究は立ち後れてしまっております」(樋口雄三/東京工業大学名誉教授)
「日本は不思議な国です。明治以前には『霊』の存在を当然のこととしてきたのに、今では(お盆の『迎え火』など形骸化された風習としては昔のなごりが残っているものの)、過去の欧米に追従して、この種の現象を真面目に考えようとしない風潮が、特に科学者の間に強くあります。アメリカでは、否定的なものにしても、最初から一流の研究者が一流の医学雑誌で論じていますし、アメリカ心理学会でも既に1977年から、毎年ではないにせよこの種のシンポジウムが行われております」
「欧米諸国はこの方面で、ある意味ではむしろ昔の日本に近づきつつあるのに、逆に日本は、過去の欧米の水準から一歩も進もうとしないのは、まことに皮肉というほかありません」
(カール・ベッカー/京都大学教授)
このような欧米と日本との違いについて万朝報は次のように報じています。
「日本の理学者は念写を否定するに反して、米国においてはさらにこれを研究せんとする学者あり。迷信と心理研究を混同して軽率に念写を否定するは恐らく学者の所為にあらざるべし」
・福来のその後
福来は大学から追放されても、「それでも私は念写の真理であることを主張する点においては、毛頭勇気を失いませんでした」と言い、真理を探究し続けました。
迫害を受けながらも、「それでも地球は回っている」と主張し続けて死んでいったガリレオと自身の境遇が重なったのでしょう。追放直後に書いた「透視と念写」の序文に次のように書いています。
「ガリレオは幽閉の身となっても、なおその研究を継続して怠らなかった。私はいかに月並学者の迫害を受けたからとて、学者の天職として信ずる道を踏まずにはおられぬ。学者の天職とは、前人未発の真理を闡明して善良なる未来を開拓して行くことである」
よほど自信があったのか、「透視と念写」の冒頭には「雲霞の如くむらがる天下の反対学者を前に据え置いて、余は次の如く断言する。透視は事実である。念写もまた事実である」と書いています。
1928年、念写の発見という大きな自負を持っていた福来は世界に知らせるために、ロンドンで開かれた国際スピリチュアリスト連盟(ISF)第3回大会に出席しました。ISFは、超心理研究を広める目的で1923年に第1回大会がベルギーで開催され、この第3回大会は42か国が参加し、シャーロックホームズで知られる作家、アーサー・コナン・ドイルも名誉総裁として出席しています。透視研究は珍しくありませんでしたが、念写は大きな関心と注目を集め、日本では迷信のように扱われた福来の研究は世界で認められ称賛されました。
1945年、戦争のために妻の郷里である仙台に疎開しますが、福来が仙台にいることがわかると、超心理学に関心をもつ人たちが福来を訪ねるようになりました。
そして、1946年、東北心理科学研究会(後に福来心理学研究所と合体する)が発足しました。初代研究所長は白川勇記(東北大学名誉教授)が務め、顧問に「荒城の月」の作詞で知られる土井晩翠、赤痢菌発見者の志賀潔、そして福来が就きました。
1952年、精力的に活動を続けていた福来でしたが、ついに病に倒れ、「仕事を残したまま死ぬのが残念無念である」という言葉を残して死にました。82歳でした。死の前夜に突然大声を上げ、「福来友吉二世生る」と3度繰り返したともいいます。
周りから見た福来の人柄
福来研究の真偽を語る上で、福来が信用できる人間であるかという点も重要です。
それを知る方法もいろいろとありますが、たとえば周囲の人間の評価を知ることも有効でしょう。
たとえば、「念写はまやかし物」だと思っていた中沢信午(山形大学名誉教授)は、土井晩翠の紹介で初めて福来と出会った時の印象を次のように語っています。
「時代物の和服に身を包み、黒ずんだモンペをはいた、小柄な、白髪の、いかにも気さくな、一見書生風の老人と向かい合った時、これがかの福来博士か・・・・と、一瞬意外な感じであった。それ以前から、名前だけは話に聞いて知ってはいた。だが福来博士といえば、実際には有り得ない心霊現象を研究して、しかもそれを真実だと信じ込んでいる学者だと思っていたのである。(中略)彼の顔つきや話しぶりから、私は彼が偽りのない真正直な人間であるのを見て取った。また彼の博学と経験とは、とうてい並の人間の及ばないものであるのを知った」
また、福来は東京帝国大学を退職した後、高等女学校の校長に就いていますが、学校経営の理事と対立して校長を辞任することになりました。その時、生徒が同盟休校に入り、当時、女学校では珍しいストライキ事件にまで発展したといいます。いかに生徒からの信頼が厚かったかということです。
そして、白川勇記(東北大学名誉教授)は「福来先生は、生真面目な学者らしい学者でした。人格的にも尊敬できる人で、随分と誹謗中傷を受けたにもかかわらず、常に堂々としておられたですね」と語っています。
福来と仏教
福来は自身の研究から次のように、「大乗仏教が最善の相談相手である」と言っています。
「心霊研究の事実と経典の記録とは、互いに相まって神秘世界を語るものである」
「吾人の研究した心霊現象を理論的に説明するのに、大乗仏教が最善の相談相手である。心霊現象は大乗仏教の教理によりて善く説明せられ、而して大乗仏教の教理は心霊現象の実験により裏書されるものである」
・無常観
「科学的文化が進歩して、生きることをどんなに便宜よくしてくれたからとて、人生の無常は依然として無常である。人生が無常である以上、人間は、魂の成長したる人間は、やはり厭世観に悩まされる」
「昔から多数の厭世論者が排出したが、ことごとく人生に死あることを理由として世を呪っている。死はそれほど人間を戦慄させるものだ。それほど人生を暗くするものだ。昔から智識の優れた王侯や、学者や、詩人が厭世論を唱えたのも、無理のないことである」
「魂が成長してくると菩提心が目を覚まして、今まで気がつかなかった人生の無常がまざまざと心眼の前に浮いてくる。生きることの価値が疑われてくる。それは科学によって与えられた、生きることの便宜によって慰められない要求である」
・悟りについて
福来は、「死あるが故に生活を悲しむのは正当であるけれど、それがために人生を価値なきものと呪い続けるのは、まだ思慮の到らぬ結果である」とも言い、例として「釈迦は涅槃寂静の悟道によって、人生の無常を超越することができた」と言っています。福来は次のように、このような絶対の境地に人間は皆、本心では憧れていると言います。
「それを世人に伝えても、現象世界の人たちは、それを迷信とか、気休めとかいって笑うものである。しかし不思議なことには、そう冷笑しておりながら、世人はやはりその実在を知りたいと思っている。人間はそこへ行きたいのである。現象の世界では甲の人は甲の眼で見るところ、乙の人は乙の眼で見るところ、各々異なっている。人間はかかる相対的なものでは満足できない。われらはこれこそ事物の真相に相違ないというものを求めてやまない」
「この心を満足せしめんとて、数千年前の昔から今日に至るまで、無数の哲人が輩出して、瑜伽三昧(精神を集中させること)に耽ったり、加持祈祷を修したりして、想像も及ばぬほどの精進をしたものである」
そして、この境地に出ることが「人間の本当の仕事」であると言います。
・仏について
念写の発見者である福来友吉(東京帝国大学助教授)は次のように、人々の前に現れる仏は幻化相であると言います。
「衆生の前に現れる如来の姿はその法身ではなく、その力用によって造られた幻化相である」
「如来は衆生を済度せんがために幻化相を示現するのであるが、その幻化相の姿は衆生の機根に応じて種々様々である」
「その幻化相が宇宙のいかなる場所に現れるかということも、念によって自由自在に定められるのである」
「『念によって念じた通りの幻化相を示現する』ことは、実験によって証明された心霊学上の根本原則である。そして、この原則がまた、神秘主義としての大乗仏教の神髄、すなわちそれ自体として無色無相にして一切処に偏在する仏の霊が、衆生済度の本願によって、自由自在に種々無量の幻化相を衆生の前に示現するということを説明するものである」
・阿弥陀仏について
ちなみに福来は、肉身を超越した境地には「信心によってできる」と言います。そしてそれは、釈迦のような超人だけでなく、信心の力によって「煩悩具足の凡夫のままで」できると言い、例として「阿弥陀仏の本願」を挙げています。
「阿弥陀如来が四十八の大願を立て、摂取不捨の御手を挙げて一切衆生を招き給うも、この意味にほかならぬ」
「われらは下根劣慧の凡夫にして神通を表し得ないけれど、仏のほうに不思議の神通があるから、われらは自力によって肉身を超越して仏の神秘世界に行くことができなくとも、われらに信心の誠さえあれば、仏のほうからわれらの心に通い給うのである。すなわちわれらの信心と仏の神通とによって、われらの心は肉身に閉じ込められておりながら、仏の心と感応し得るのである。この不思議の事実が宗教の本質である。そうして、この事実を最も適切に表示したものが、南無阿弥陀仏の六字であろう」(福来)
・仏教批判
福来は、次のように仏教学者は神通力を迷信だと思っていると指摘していますが、これは今でも同じでしょう。
「現代は科学万能の時代である。仏教学者も科学思想に支配せられ、これと矛盾するものを迷信と思っている。だから科学と矛盾する神通を彼らが信じ得ようはずがない。仏典中に神通のことが記載されてあっても、彼らは唯仏の徳を讃美する形容にすぎぬものとしてそれを省き、科学と矛盾せざる部分のみをひきだし、それを仏教だと言って宣説するのである。かくして宣説される仏教は科学万能の現代人にはよくわかるであろうけれど、吾人から見ると魂の抜けた仏教である」