人間には優劣がある

人生には目的があります。

やっぱり人生には目的があった!「生き方は人それぞれ」ではない

人生にはゴールに相当するものがあるということであり、ゴールに近いか遠いかによって、人間のレベルを分けることができます。
〇大まかなレベル
個人差はありますが、大きく次の5種のレベルに分類できます。遠い順から書きます。
・異安心の人(レベル1)
異安心の人たちが1番ゴールから遠い人であり、1番不幸な人といえます。なぜそう言えるのかというと、他のレベルの人と比べるとわかるでしょう。

・邪教の人(レベル2)
邪教とは書いて字の如く、邪な教えのことで、仏教以外の全宗教を指します。
こちらで説明したように、キリスト教は地動説でさえ、ほんの30年ほど前まで認めていませんでした。

ガリレオ裁判がキリスト教にとって致命的な出来事といえるワケ。科学の批判に耐えられない教えに価値はない

科学が証明するなどして世間の常識となってようやく信念を変えるという流れですので、邪教の人は遅いのです。
また、邪教はまったく教えの内容が違うため、異安心の人に比べて間違いに気づきやすいということがあります。
ですので、どっちもどっちで土筆の背比べのようなものではありますが、邪教の人は異安心の人に比べ多少はマシな人間といえます。

・何も知らない人(レベル3)
異安心でも邪教でもない人は、真っ白な白紙のようなもので、教え次第で何色にも染まります。

・知っていても求めない人(レベル4)
真実の仏教を知っても求めない人がいます。
仏教の価値をまったく感じていないわけではないのですが、求道しようとまでは思わない人たちです。
「心中をあらためんとまでは、思う人あれども、信をとらんと、思う人なきなり」(御一代記聞書)
(訳:仏教を聞いて、反省し心を改める人はいるが、死の解決をしようと思う人はいない)

・知っていて求める人(レベル5)
真実の仏教を知り死の解決を求めている人で、通常はこの人を求道者といいます。あと少し手を伸ばす努力をすればゴールに到達できるため、最もレベルの高い人間といえます。
このレベルについてもっと詳しく説明します。

〇求道者のレベル
求道すると具体的にどのような変化があるのか、これもレベルに分けて説明します。個人差はありますが、ほとんどの人が次のような流れを辿ります。
・スタート
どんな偉大な仏教者でも、求道をスタートしたという瞬間があります。そのきっかけは様々で、心の病だった人もいれば、失恋だった人もいます。
そして、物凄い勢いで求め出す人もいれば、緩慢な人もいます。宿善に差があるので、スタートからすでに差が出ています。

・中頃(レベル6)
どんな人も聴聞を繰り返すことで、じりじりと進んでいきます。
末那識が布団のように覆っているため、阿頼耶識は隠れて見えなくなっていますが、千座・万座と聴聞を重ねていくことで、その布団を1枚1枚剥がすことができます。
すると、阿頼耶識が段々と薄ぼんやりと見えるようになってきます。
さらに聴聞を続けると、やがて疑情が見えるようになってきます。手に取るようにはっきりと見えてきます。
そして、必死の求道、必死の聴聞が始まります。先に説明した通り、疑情が見えることは大変重要なのでレベル6としています。

・終盤
そして最後のほうで、一番恐ろしい闡堤が見えてきます。
五逆罪謗法罪の限りを造りながら罪悪を罪悪と思わない心であり、どれだけ死を見せつけられても無常を無常と思わない心です。
また、極楽へ行けると聞いても1円得たほども喜べない心であり、地獄へ堕ちると聞いても1円失ったほども驚かない心です。頭は無常や罪悪に恐れおののいていますが、闡堤は何とも思いません。頭は闡堤に対して反応せよと言いますが、闡堤はまったく反応しません。闡堤について涅槃経には「死骸の如し」と説かれ、親鸞は「逆謗の屍」と名づけました。この闡堤を見つめることが無常観罪悪観の目的です。
このように死が問い詰まらないことに苦しみながら必死の聴聞が続き、さらに進んでいきます。

・ゴール直前
そしてやがて宿善開発し、後生に驚きが立ちます。それまでは何ともないのですが、突如として、百雷が落ちた如く驚きが立つのです。後生に驚きが立てば、ゴールは目前です。

・ゴール(レベル7)
一向専念になった刹那、阿弥陀仏の久遠の呼び声が聞こえ、闡提が聞きます。
ここでようやく阿弥陀仏と対面することができます。
「すべてはあなたに出会うためのストーリー」というCMを流す結婚式場もありましたが、「すべては阿弥陀仏に出会うためのストーリー」なのです。

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