本願とは
本願は誓願ともいい、約束という意味です。
本願力
本願には力があり、本願力といいます。業に力があり、業力というのと同じです。
阿弥陀仏の本願
阿弥陀仏という仏がいます。サンスクリット語のアミターバ(無量の光明)とアミターユス(無量の寿命)に共通するアミタ(無量)に漢字をあてて阿弥陀になったといわれています。
「かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす」(阿弥陀経)
(訳:その仏の光明は無限であり、すべての世界を照らし、妨げるものは何もないので阿弥陀という)
「かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その仏の寿命もその国の人々の寿命も無限であるので阿弥陀という)
仏教では、光明は力(念力)を表します。
十八願
阿弥陀仏の本願は大きく48に分かれますが、その中で、次の36文字からなる第十八願を王本願といい、最も重視します。
なぜなら、阿弥陀仏の本願のエキスが、この36文字に凝縮されているからです。
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 至心に信楽して 我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん 若し生れずば 正覚を取らじ 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん)
(訳:私が仏になる時、すべての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、仏の命を捨てよう。ただし、五逆の罪を犯した者と謗法の罪を犯した者は除く)
要約すると、「私を信じなさい。すべての人々の死を必ず解決させる」という意味になります。
阿弥陀仏の本願といった場合、一般的にこの第十八願を指します。第十八願は、「至心信楽の願」「選択本願」「念仏往生の願」などともいいます。
・乃至十念
「乃至十念」とは、「御礼の念仏は何回でもいい、称えたくなかったら称えなくてもいい、数は問わないぞ」という意味です。
「『乃至』は、かみ・しもと、おおき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきをも、みなおさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかいなり」(唯信鈔文意)
(訳:「乃至」は、上と下、多いと少ない、近いと遠い、久しいをも、すべて収める言葉である。念仏は数多く称えなければならないとか、あるいは一回だけ称えればいいといったことにこだわる心を止めさせるために、法蔵菩薩が願われたお誓いである)
大して価値がない物を貰った時は感謝する心がでませんが、高価な物を貰うと大きく感謝する心が生まれ、御礼をしたくなります。そして、あまりに高価な物を貰うと、「どう返したらいいだろうか」と苦しいほどに御礼に困るようなります。死の解決は、この上なく価値が高い貰い物ですが、「御礼で苦しめたくない」ということまで阿弥陀仏が見通しているのです。
・唯除五逆誹謗正法
この言葉の真意について、親鸞は次のように説明しています。
「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」(尊号真像銘文)
(訳:唯除とは、ただ除くという言葉である。五逆罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重さを知らせようとされているのである。この2つの罪の重さを示して、すべての人々が皆もれずに往生できるということを知らせようとされているのである)
親は子供が悪いことをすれば厳しく叱りつけ、あまりに酷ければ「家から出てけ!」と怒鳴ることでしょう。しかし、このように厳しくする親の真意は、本当に家から出ていってほしいのではなく、子供に自分の過ちを反省させることにあります。悪いことしているのに、「あなたは悪くないよ」などと甘やかしていれば教育になりません。
このように、五逆罪と謗法罪という重い罪悪を造っている極悪人であることを自覚させて救おうとするのが、この言葉の真意です。別の言い方をすれば、極悪人の自覚ができれば他力が働き救われますが、自覚できなければ救われないということです。
・方便の本願
第十八願以外の本願は、第十八願へ導くための方便の本願となります。
「弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり」(安心決定鈔)
(訳:阿弥陀仏の本願は四十八あるが、第十八願を本意とする。他の四十七の願は、第十八願を信じさせるためである)
ちなみに、第十九願と第二十願は次のようになっています。
・第十九願
「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 菩提心を発し 諸々の功徳を修し 至心に発願して 我が国に生まれんと欲はん 寿終る時に臨みて 仮令大衆と囲繞して 其の人の前に現ぜずば 正覚を取らじ)
(訳:私が仏になる時、すべての生物が真実の幸福を求める心を起こして、様々な善を行い、心の底から私の極楽浄土に生まれたいと願うなら、臨終に多くの聖者と一緒にその人の前に現れよう。もしそうでなければ、仏の命を捨てよう)
第十九願は、「修諸功徳の願」「至心発願の願」ともいいます。
・第二十願
「設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 我が名号を聞き 念を我が国に係けて 諸の徳本を植え 至心に廻向して 我が国に生まれんと欲はんに 果遂せずば 正覚を取らじ)
(訳:私が仏になる時、すべての生物が私の名号を聞き、私の極楽浄土に念いをかけて様々な善を行い、心の底から私の極楽浄土に生まれたいと願うなら、必ず叶えよう。もしそうでなければ、仏の命を捨てよう)
第二十願は、「植諸徳本の願」「至心廻向の願」ともいいます。
他力
現代では、「他力本願ではなく、自分の力で解決すべきだ」という具合に、他力を「他人まかせ」の意味に使われたりしますが、これは間違いです。他力とは、阿弥陀仏の本願力のことをいいます。
「他力と言うは、如来の本願力なり」(教行信証)
(訳:他力とは、阿弥陀仏の本願の力である)
・念力
心で思ったり念じることには力があり念力といいますが、本願力は阿弥陀仏の念力になります。そのため、阿弥陀仏の本願力を大願業力ともいいます。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(観無量寿経疏)
(訳:すべての人間が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大願業力によるのであり、これを最上の力としないものはないのである)
・死の解決
阿弥陀仏の本願力には、すべての人間の死を解決させる力があります。
「偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)
(訳:ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)
どんな極悪人でも救う本願
阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救う本願です。優れた人間だけでなく、どんな極悪人でも救ってくださいます。すべての仏に本願がありますが(釈迦にして五百願)、人間のような極悪人を救う本願は阿弥陀仏の本願だけです。ですので、仏教で本願といえば阿弥陀仏の本願を指します。
「仏の顔も三度まで」という言葉が流布しているようですが、何度でも救おうとされるのが阿弥陀仏です。
「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」(正像末和讃)
(訳:阿弥陀仏の本願という救いの船がなければ、この苦悩の海をどうして渡ることができようか)
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(高僧和讃)
(訳:この世は際限がない苦悩の海のようである。遠い昔から苦海に沈んでいる私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて救ってくれる)
「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
(訳:無数の罪悪をもつこの身を、唯一助けようと思われた阿弥陀仏の本願の、何と有り難いことであろうか)
「それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしく皆十方三世の諸仏の悲願にもれて、捨て果てられたる我等ごときの凡夫なり。しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの、諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりて、われひとり助けんという超世の大願をおこして」(御文)
(訳:すべての人間は、諸仏が見捨てるような極悪人である。そんな我々を救おうとして、諸仏の師である阿弥陀仏一仏だけが無上の大願を起こし、立ち上がってくだされた)
・信ずるだけで救う
賢愚・貴賤・貧富・美醜・老若・男女etc.あらゆる差別に関係なく、阿弥陀仏を信ずる1つで死の解決ができます。
「賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」(観無量寿経義疏)
(訳:頭が賢いか愚かか、出家か在家かに関係なく、また、修行時間の長い短いを論ぜず、造る罪悪の軽い重いを問わず、ただ信心が決定することだけが往生の因なのである)
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」(正信偈)
(書き下し:速に寂静無為の楽に入ることは、必ず信心を以て能入と為す)
(訳:速やかに極楽浄土に入るには、他力信心を獲るしかない)
「多聞浄戒えらばれず 破戒罪業きらはれず」(帖外和讃)
(訳:仏法を多く聞いたとか、清浄で正しい戒を守るといったことに関係ない)
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」(歎異抄)
(訳:阿弥陀仏の本願は、老若や善悪に関係ない。ただ信心一つで救われると知るべきである)
「その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり」(御文)
(訳:死の解決をするには、智慧や才学も問わず、貧富も問わず、人間の善悪も問わず、性別も問わず、ただ諸々の雑行を捨て阿弥陀仏を一心一向に信ずる一つで救われるのである)
「他力の信心といふことを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもって叶うべからずと、経釈ともに明らかにみえたり」(御文)
(訳:阿弥陀仏から他力の信心を賜わらなければ、極楽浄土に往生することは絶対にできない。どんな経典や聖教にも明らかである)
・弘誓の強縁
あらゆる衆生を救うという広大な誓願であるため、阿弥陀仏の本願のことを「弘誓の強縁」ともいいます。
幸せという結果を得るには、自由意志で悪縁を捨て良縁を選び取る必要がありますが、弘誓の強縁以外、何を選ぼうが真の幸せは手に入りません。阿弥陀仏から賜る弘誓の強縁と人間の凡心が因縁和合して、死の解決という結果を獲ることができます。
この仕組みは炭素と熱の関係でたとえることができます。炭素(凡夫の心)に普通の熱(名利)という縁が結びつくと炭(無常の幸福)となりますが、炭素に高熱高圧(弘誓の強縁)という縁が結びつくとダイヤモンド(死の解決)となるようなものです。
教行信証には、「心を弘誓の仏地に樹て」と説かれています。死の解決をせずに生きることは、崩れやすい地にビルを建てているようなものです。死という巨大な地震がくれば、跡形もなく崩れ去ってしまいます。死の解決をしない限り真の安心はないのです。
「ああ、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
(訳:ああ、阿弥陀仏の本願は何度生まれ変わってもあい難く、死の解決はどれだけ長い時間を経ても獲難い。もし獲ることができたのなら、遠く過去からの因縁を喜べ)
・命がけの誓い
阿弥陀仏は十八願に、「若不生者 不取正覚」と誓っています。これは、「もし死を解決させることができなければ、命を捨てる」という意味です。
「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり」(浄土和讃)
(訳:阿弥陀仏が命がけの誓いをされているから、一生懸命求道すれば、必ず死の解決ができるのである)
悪人を優先して救う
阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救う本願ですが、悪人を優先して救います。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)
(訳:善人でさえ救われるのであれば悪人はなおさら救われる)
・なぜ悪人を優先するのか
説明した通り、悪人とは、自己の罪悪を知って苦しんでいる人であり、善人とは、罪悪を造りながら造っている自覚が無く、善をしていると自惚れている人です。
人間もそうですが、苦しんでいない人より、苦しんでいる人を先に救おうとします。
「しかるに諸仏の大悲は苦ある者に於てす、心偏に常没の衆生を愍念したまう」(観無量寿経疏)
(訳:仏の慈悲はより苦しんでいる人により重くかかるのであり、その心は偏に苦悩の海に沈み切っている人をあわれんでいるのである)
「たとえば一人にして七子有らん。この七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるに非ざれども、しかるに病子において心則ち偏に重きがごとし。大王、如来も亦爾なり。諸々の衆生において平等ならざるに非ざれども、しかるに罪者において心則ち偏に重し」(教行信証)
(訳:たとえば、ある人に七人の子供がいたとしよう。この七人の中で、一人病気になる子がいれば、親心はすべての子に平等でないはずがないが、この病気の子には特に心がかかるようなものである。阿弥陀仏もまた同じように、すべての生物に平等でないはずがないが、自己の罪悪を自覚して苦しんでいる悪人に、より心がかかるのである)
・本願ぼこり
「悪人こそ救われる」という教えを、「どんな悪いことをしても救われるんだ」とか「悪いことをするほど救われる」と誤解することを「本願ぼこり」とか「造悪無碍の異安心」といいます。「安心」とは「信心」のことで、異安心とは「異なる信心」という意味です。何と異なるかというと、他力の信心、つまり阿弥陀仏から賜る信心と異なるということです。
本願ぼこりは、悪に誇っている善人様の状態であり、当然救われません。
「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからず」(歎異抄)
(訳:阿弥陀仏の本願には不思議な力があるからといって、罪悪を造ることを恐れないのは、本願ぼこりであり救われない)
阿弥陀仏の光明
阿弥陀仏の光明は、すべての衆生に降り注いでいます。
〇十二光仏
阿弥陀仏の光明は、次の12通りの徳を備えているので、阿弥陀仏のことを十二光仏ともいいます。
無量光仏:光明に限りが無いため
無辺光仏:あらゆる世界を照らすため
無碍光仏:何ものにも遮られずすべての生物を照らすため
無対光仏:他に並ぶ光がなく、どんな仏も及ばないため
光炎王仏:炎が燃えるように明るく最も優れた輝きのため
清浄光仏:煩悩の汚れを取り除くため
歓喜光仏:大いなる歓喜の心を生じさせるため
智慧光仏:無知の闇、無明の闇を破るため
不断光仏:常に絶えることなくすべてを照らすため
難思光仏:思いはかることができないため
無称光仏:言葉で説き尽くすことができないため
超日月光仏:太陽や月の光など、他のどんな光よりも超え優れているため
〇2種類の光明
阿弥陀仏の光明には、大きく2種類あります。
・調熟の光明
遍照の光明や照育の光明ともいい、大宇宙のすべての衆生に降り注いでいる光明です。雑毒の善を宿善に変えるなど、求道者を成長させ前進させる力です。
・摂取の光明
一念で死の解決に救い取る光明です。
調熟の光明で宿善を厚くし続け、最後に摂取の光明で救い取るという流れです。
「この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病の、治るということは更にもってあるべからざるものなり」(御文)
〇調熟の光明
すべての生き物に調熟の光明がかかっています。
太陽や月の光は物に遮られると届きませんが、阿弥陀仏の光明は十万億もの世界離れていようが何物にも妨げられることなく、すべての命あるものを照らします。
ある日、庄松が道を歩いていた時のことです。
犬がいたので、その前を庄松は、「ごめん」と言って通りました。それを聞いていた連れの人は、「犬にごめんという奴があるか」と叱りました。しかし庄松は、「犬にごめんなんて言ってない」と言います。
「今言っただろ!だからバカって言われるんだ!」
「言ってない」
このようなやり取りを何度か繰り返した後、庄松はこう言います。
「お前なぁ、ワシは阿弥陀仏の本願にごめんと言ったんで、犬には言っとらん。犬も十方衆生の中。阿弥陀仏の本願がこの犬にもかかっていると思ったら、思わずごめんと言わざるを得なかったんじゃ」
・求道を前から引っ張る
求道者には阿弥陀仏の念力が前から働き、求道を引っ張っています(招喚という)。
求道は善をする道であり真実を知る道ですが、こういった心は凄く良い心であり、人間の本性からいえば、こんな良い心が人間にあるはずがありません。自分の力でこのような心を起こしているように思っていますが、実際は阿弥陀仏の念力によるものです。たとえば、デートしたり遊んだほうが楽しいのに、正座して苦しい思いをしてまで仏教を聞こうとするのは阿弥陀仏の力だということです。
最初は、「自力の菩提心がある」と思って求道を始めますが、自力いっぱいで求めていくと、「自力の菩提心が欠片もない」ということがわかってきます。
・係念の宿善
人間の善は雑毒の善であり虚仮の行ですが、その雑毒の善を宿善と変える力が阿弥陀仏の光明にはあります。ですので、雑毒の善であっても一生懸命善をすることが大切です。
もちろん、毒を捨てるよう努めなければなりません。たとえば、人を救おうとする行為には、「自分が救われたい」という、いわば阿弥陀仏に対する「賄賂」がまじっているため、この悪い心(毒)を捨てようと努める必要があります。
・死の解決をするまで気づかない
今も照らしあわされており、普段の生活の中でも色んな形を取って調熟の光明は現れますが、死の解決をするまで基本的にわかりません。死の解決をして初めて、あれは阿弥陀仏が教えてくれたことだったのかとわかります。しかし、真剣に求めると水流光明が見えることもあります。
・無量の罪悪を照らし出す
人間は無量の罪悪を造っているにもかからず、そのことが自覚できません。無量の光明によって照らし出されることで初めて無量の罪悪を自覚することができます。無量の罪悪が自覚できればショック死することになりますが、この点については後述します。
すべての仏の願い
本願の内容は仏によって表向きには違いますが、根本的な目的は皆同じです。阿弥陀仏しか人間を助けることができないので、阿弥陀仏一仏に向かうよう勧めているということです。
・阿弥陀仏は最高の仏
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」(大無量寿経)
(訳:阿弥陀仏の偉大な力は最も尊いものであり、他の仏の及ぶところではない)
阿弥陀仏の光明は他のどんな仏の光明よりも超え優れています。
すべての仏の中で最高の仏であるため、大阿弥陀経には「諸仏の中の王なり」と説かれています。また、阿弥陀仏は、この上ない仏であるため、無上仏ともいわれます。
・本師本仏
阿弥陀仏は、すべての仏の先生であり、すべての仏を仏に成さしめた根本の仏であるため、本師本仏と説かれています。
「三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚」(般舟経)
(書き下し:三世諸仏は念弥陀三昧によりて等正覚を成ず)
仏は時空を越えた存在であるため、三世諸仏ともいわれ、通常は阿弥陀仏以外のすべての仏を指します。阿弥陀経には、大宇宙にはガンジス川の砂の数ほどの無数の仏がいると説かれています。
ですので、釈迦も三世諸仏の一仏になります。釈迦は、今生の地球において自分の力で仏の悟りを開いたように見えますが、実は五百塵点劫という遥か昔に、阿弥陀仏の力で仏となっていたのです。
では、なぜそのようなことをしたかというと、衆生を済度するためです。あまりに境涯が違う人間を救うために、わざわざそのように見せかけたのです。これを、「和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終わり」ともいわれます。
・釈迦は阿弥陀仏の宣伝マン
釈迦は阿弥陀仏の本願を説きに還相廻向の菩薩として地球上に現れた、いわば阿弥陀仏の宣伝マンなのです。一つの星に一仏というのが基本で、釈迦は地球担当となります。
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)
(書き下し:如来世に興出したまう所以は、唯弥陀の本願海を説かんとなり)
(訳:釈迦がこの世に出られた理由は、阿弥陀仏の本願一つを説くためであった)
阿弥陀仏の本願は、広くて深い願いであるため海にたとえています。また、「只」ではなく「唯」という字を使っています。「只」は、只で物をもらった時に使う字ですが、「唯」は唯一という意味です。
「かの長ぜるを顕したまうことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり」(教行信証)
(訳:(釈迦が)阿弥陀仏を誉め称える理由は、すべての生物を阿弥陀仏に帰依させたいと思うからである。このため、釈迦は経典の様々な箇所で阿弥陀仏を讃嘆しているのである。この真意をよく知るべきである)
経典は阿弥陀仏を誉め称えてばかりいるので、天台の荊渓という人は、「諸教の讃ずるところ、多く弥陀にあり」と言い、「一切経は阿弥陀仏の提灯持ちじゃないか」と驚いています。
・説き尽くせなかった
釈迦は45年もの間、阿弥陀仏の本願を説き続けましたが、あまりの功徳の大きさに、「説き尽くすことができなかった」と言っています。
「我無量寿仏の光明威神の巍巍として殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、尚未だ尽くすこと能はず」(大無量寿経)
(訳:阿弥陀仏の光明の偉大で尊いことを、私が一劫もの間、昼も夜もなく説き続けても、なお説き尽くすことはできない)
・釈迦は方便の役割
つまり、釈迦は阿弥陀仏の本願へ近づけるための方便の役割を果たしているのです。
「それ、一切の神も仏と申すも、いまこの得るところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、諸々の神・諸々の仏と現れたまふいはれなればなり」(御文)
(訳:一切の神や仏は、他力の信心一つを獲させるための方便として、諸々の神や仏となって現れたのである)
・浄土三部経
「大無量寿経(大経)」「観無量寿経(観経)」「阿弥陀経(小経)」この3つを浄土三部経といい、仏教で最も重要な経典となります。大経は、阿弥陀仏の本願の四十八願中、十八願を説明した経です。同様に、観経は十九願を、小経は二十願を説明した経です。浄土三部経に説かれていることを簡単に表現すると、それぞれ次のようになります。
大経:死の解決に救う(阿弥陀仏の言葉)
観経:どんな人でも助かる(釈迦の言葉)
小経:それに間違いない(三世諸仏の言葉)
本願成就文
阿弥陀仏の本願だけでは不明な点がいくつかあります。その不明点を釈迦は、大無量寿経下巻の本願成就文で明らかにしています。
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」(本願成就文)
(書き下し:諸有の衆生 其の名号を聞きて 信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば 即ち往生を得 不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん)
(訳:すべての生物は、阿弥陀仏の名号を聞き、他力信心を獲て死の解決をするのである。死の解決をすれば、生きながら往生することができ、不退転の位に至る。ただし、五逆と謗法の罪を犯す者は除く)
本願成就文で次の不明点が明らかになります。
1.どうすれば助かるのか
聞其名号(名号を聞いて)
2.若不生者の生れるという意味は死後なのか現在なのか
即得往生 住不退転(現在)
3.信心は自分で起こすのか阿弥陀仏より賜るものなのか
至心廻向(他力)
4.信心で助かるのか念仏で助かるのか
信心歓喜 乃至一念(信心)
・本願成就文が至極
本願は本であっても至極ではなく、成就文が至極、つまり最も大切です。
「三経の安心あり。そのなかに『大経』をもって真実とせらる。『大経』のなかには第十八の願をもって本とす。十八の願にとりては、また願成就をもって、至極とす」(改邪鈔)
(訳:浄土三部経の中で、大無量寿経が真実の経である。大無量寿経の中でも第十八願が根本であるが、第十八願の不明点を説明している本願成就文が最も大切である)
「横超とは、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり」(教行信証)
(訳:阿弥陀仏の絶対他力を明らかにした本願成就文が、唯一真実で完全無欠な教えである)
本願ができるまでの流れ
阿弥陀仏にも求道していた時代があり、その頃の名を法蔵菩薩といいます。阿弥陀仏の本願は、正確には法蔵菩薩の時に立てた誓願となります。大無量寿経には本願生起の御有様が説かれているので簡単に紹介しましょう。
久遠の昔、錠光という如来が世に出でて、無量の衆生を救い涅槃に入りました。続いて、光遠、月光などの53の如来が次々と世に出て涅槃に入りました。そして、54番目の仏として世自在王仏が世に出ました。
時に、1人の国王があり、世自在王仏の説法を聞いて深く感動しました。国王は、国も王位も捨てて出家し、法蔵と名乗りました。法蔵菩薩は世自在王仏の御所に詣り、恭しく跪き合掌して言いました。
「世尊、どうか私のために広く法をお説きください。その教えの通り修行し、最勝の浄土を建立したいと思います。一切衆生の苦しみの根源を解決させたいからです。たとえ苦難の毒中に身を沈めても、耐えて修行に励み、決して後悔しません」
それを聞いた世自在王仏は、「どのような修行をして浄土を建立するかは、汝自身で知るべきであろう」と突き放すように言いました。
しかし、法蔵菩薩は訴えます。
「その教えはとても深くて広く、私などには知ることができるものではありません。どうか、諸仏浄土の成り立ちをお説きください。その教えを承った上で、お説きになった通り修行し、私の願いを叶えたいと思います」
世自在王仏は、法蔵菩薩の志願の動かざることを知り、この菩薩のために教えを説きました。
「たとえば、ただ1人で大海の水を升で汲み取ろうとしたとしよう。果てしないときをかけてそれを続けるなら、底まで汲み干して、海底の妙法を手に入れることができる。これと同じように、人が精進して、一心に道を求め続けるなら、目的は必ず達せられるだろう」
このように言うと、世自在王仏は二百一十億の諸仏浄土を見せ、1つ1つの浄土の優劣と、そこに住んでいる人々の果報の善悪を説きました。
法蔵菩薩は、それらの浄土をすべて見終わると、極めて澄んだ心で五劫の間思惟し、未だかつてない誓願を立てました。それは、信ずる1つで救うという誓いでした。次に、その願を成就するために、兆載永劫の修行をなされ、ついに仏覚を得て阿弥陀仏となりました。あわせて、極楽浄土を荘厳し、衆生が受け取る1つで救われる六字の名号を完成したのです。
疑情
阿弥陀仏の本願を疑う心を疑情といい、無明や自力と同義です。阿弥陀仏はいるんだろうか、という粗雑な疑いではなく、疑煩悩とは違います。
「本当に救ってくだされるのだろうか」「自分だけ本願に漏れているのではなかろうか」といった疑いがムクムクムクムクと出てくる、これが疑情です。
・苦悩の根源
人間のあらゆる苦悩の根源であり、六道を輪廻させる根源となります。
人間の本体である阿頼耶識は、始めのない始めから終わりのない終わりに向けて、永遠と苦しみ迷い続けていますが、その根源が疑情ということです。
「流転輪回のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(高僧和讃)
(訳:苦悩の輪廻に際限がないのは、疑情があるからである)
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(正信偈)
(書き下し:生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す)
(訳:車の輪が果てしなく回るように苦しみと縁を切ることができないのは、疑情があるからである)
縁が切れないことのたとえとして「家」という言葉を使っています。人間は家を離れて生活ができません。家と縁が切れないように苦しみと縁が切れないということです。
・意外なところに原因がある
「火吹き竹の根は藪にあり」という諺があります。
これは、原因が思わぬところにあるという意味です。苦悩の根源が疑情であるということは、人間にとって物凄く意外なことです。
・差別の慈悲か
阿弥陀仏の愛は平等の愛ではなく、差別の愛であると批判する人がいます。
ある時、一休が、友人の蓮如に次のような歌を送りつけました。
「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生を のみぞたすくる」
「阿弥陀仏はすべての衆生を助けるというが、たのむ衆生だけを助けるのだから、真の慈悲はなく、差別のある仏ではないか」と一休は言うのです。
これに対し蓮如は、こう返歌します。
「阿弥陀には 隔つる心はなけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」
「阿弥陀仏に隔て心はないが、蓋がある水に月の光が届かないように、心に蓋をしていては阿弥陀仏の光明は届かない」という意味です。つまり、心の蓋(疑情)を外すよう努力しなければならないと教えているのです。
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ(勅修御伝)」という歌もあります。
「月の光は至る所を照らすが、眺めようとする人の心にしか見えないように、阿弥陀仏の光明はあらゆる場所を照らすが、疑情の蓋が取れた人しか救われない」ということです。
・疑情の重要性
疑情が見えるということは恐ろしいことですが、非常に重要なことです。なぜなら、疑情が見えれば求道が本格化し、必死の求道が始まるからです。そして、同時に求道のレールに乗ることになります。一度このレールに乗れば、ほとんどの人が脱線することなくゴールまで辿りつくことができます。地獄が見えて途中でやめる人はいません。逆に、疑情が見えていない人は、途中で求道から脱線する可能性があるため、非常に危険な状態です。
疑情が見えた求道者は、歯が生えた赤ん坊にたとえることができます。歯が生えれば母親の乳首を噛んでしまいます。それは親を苦しめることであり恐ろしいことですが、親は、「ここまで成長したか」と喜びます。同じように、阿弥陀仏を疑う心なので疑情は恐ろしいことですが、阿弥陀仏は喜んでくださるのです。ちなみに、妙好人として評される「おみせ」という人は次のように表現しています。
「みなが疑いを嫌うような聞きようをするが、それでは親心に叶わぬ。乳飲み子が母の乳房を噛むと、乳を飲ませぬと腹を立てるということはない。かえって歯の生えたことを喜ぶ如く、大悲の御親は疑えば助けぬぢゃない、かえって疑いの歯の生えたことを喜ぶとまでの御意にあうのぢゃ。けれども疑うてさえをりゃよいと聞くぢゃない」
疑情が見えるまでは、信仰の幼稚園児なのです。
・疑情の解決は難しい
相当求道が進まないと疑情は見えません。
大まかに言えば、求道の半分ぐらいまで進んだ時に見えてきます。そして、疑情を解決する必要がありますが、それは物凄く難題です。
妙好人として評されている山口善太郎という人は、次のように求道の途中までの道程を残してくれています。
「聞けよ聞けよのお勧めが 耳に聞こえりゃ機に合わず 少しも聞く気のない奴に 不思議と聞く気が起こり初め 御座を重ねて聞くものの 聞いたばかりじゃ味がない 味わいどころか苦しくて 無き疑の起こり出し 他力の十八願は 信じて来たれと仰言るが 信じにかかれば自力なり 頼んで参れと仰言るが 頼みにかかれば亦自力 まかせまかせと仰言るが まかせは自力の押しまかせ おすがり申せと仰言るが 柱にすがると違う故 すがる気おこせばたよりなし その儘来いよと仰言るが 行く気起せば亦自力 自力と言うも自力なり 自力他力の水際を 委しく教うる人はなし 真の知識にあいたやと 聞かば千里のその外の 海山越えても厭わじと 狂い廻れる甲斐もなく 何のしるしもあらばこそ それでも無常の鬼来ると 思えば益々気味悪く とりつく島もなき故に 堕ちる私があればこそ 堕とさぬお慈悲があるのじゃと 又お慈悲にとりつけば やはり自力の逆もどり どうせ離れぬ自力なら 自力のままのお助けと 思えば自力は続くなり 自力そのままおきざりに お助けばかりじゃ首がない 此の機ばかりじゃ尻がない 尻がないのは幽霊で 迷い苦しむその末に 堕ちて行くのが持ち前と 胴腰据えたら地獄秘事 この機よかろが悪かろが 仏の手元がたしかな故 あなたばかりで済ますのは 法体づのりの親玉よ そこでいよいよ難信儀 泣いて甲斐なきことなれど 方角立たずに泣くばかり」
彼は「無き疑の起こり出し」と言っていますが、これが疑情です。この言葉の裏には、千座・万座と聴聞を繰り返した求道の道程が隠されているのです。
疑情を解決するということは、この上なく重い病気を治すということです。
第3巻でも説明しましたが、この病気は自覚症状のない恐ろしき病です。人間は病気が発覚するまでは何の心配もしません。
しかし、いざ見つかると大きなショックを受けます。そして、治す方法を必死で探し出します。少しでも効果がありそうだと思えば、大金を投げだして求めようとします。しかし、どれだけ努力しても治すことができなければ絶望します。
そこへ、治すことができるという名医と出会えば喜び希望が湧いてきます。
しかし、「本当に治るのだろうか」という疑いは消えていません。医者は「任せてください」と言い励ましてくれますが、時間が経つにつれ、「この医者に任せて本当に大丈夫だろうか」という医者に対する疑いがムクムクムクムクと出てきます。医者への期待と疑い、そして死の恐怖が入り乱れたまま手術を迎えることになります。
そして、無事手術が成功し病気が治ったことをはっきりと知った瞬間、躍り上がって喜びます。「先生が言ったことは本当だった!嘘じゃなかった!先生は本当に名医だった!」と医者に対する疑いは雲散霧消します。
名医とは阿弥陀仏のことです。疑情の解決までの流れは、このようにたとえることができます。
・他力の道でも努力は必要
浄土門他力の道であっても、自分の力で求めようと努力する、自力の心がけが必要です。
「他力なのだから何もしなくてもいい」と誤解する人がいますが、これは無力の状態であり、これでは他力が働きません。他力が働くには、一生懸命自力で求める必要があります。一生懸命自力で求め、自力無効と知らされた時に他力が働きます。どんなに優れた薬があっても、本人が飲もうと努力しなければ意味がないのです。
「自力にて往生せんと思うは、闇夜に、わが眼の力にて、物を見んと思わんがごとし。更に叶うべからず。日輪の光を我が眼に受け取りて所縁の境を照らしみる、これ、しかしながら日輪の力なり。ただし、日の照らす因ありとも、生盲の者は見るべからず、また、眼開きたる縁ありとも、闇夜には見るべからず。日と眼と、因縁和合して物を見るがごとし」(安心決定鈔)
(訳:自力で往生しようと思うのは、闇夜に自分の目で物を見ようと思うようなものであって、それは不可能である。日の光を自分の目に受け取って物を見ることができるのであるが、これは光の力である。しかし、光が照らすという因があっても、盲目の人は見ることができない。また、目が見えるという縁があっても闇夜には見ることができない。日の光と目、因と縁が結びついて初めて物が見えるのである)
「こうした研究結果から明らかになったのは、あなたが悟りを求めているなら、自分の通常のものの考え方や現実の体験の仕方を積極的に阻害することで、自ら意図的に悟りを求めていかなければならないということだ」(アンドリュー・ニューバーグ/神経科学者/トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)
自己を知るというのはこれほど難しいことですが、現代の仏教は「簡単に悟りを開ける」という主張で溢れてしまっています。
「大乗経典とそれを奉じる大乗仏教徒は、悟りを上手に売り込んだように見えます。『お釈迦さまの教えでは悟りはなかなか難しい。さてどうしようか』と悩んでいるところに、『こっちのお経なら簡単に悟れますよ』と呼び込むのです。しかし、そう簡単に悟れるものでしょうか」(藤本晃/広島大学大学院文学研究科客員教授)
トイレも自分の代わりはいません。自分の後生は自分で面倒を見るしかないのです。
・病気の自覚が1番重要
何より重要なのが「病気の自覚」です。自覚できれば求道のレールに乗ることができます。
また、疑情を次のようにたとえて教えた人もいるので紹介しましょう。
北陸に、千座・万座と聴聞していた婆さんがいました。
この婆さんがある時、「今晩死んだら・・・・」と後生が心配になりました。この心が出てくれば、誰でも居ても立っても居られなくなります。それで婆さんは寺に駆け込みました。
すると、一蓮院という僧侶が出てきました。
「婆さん、どうした」
「はい。実は、今晩死んだらと思ったら心が真っ暗なんです」
「そうか。婆さんや、良い心が出てきたのー」
婆さんからしてみたら、ちっとも良い心とは思えません。
すると一蓮院は、白玉と黒玉を5個ずつ持ってきました。そして、中が見えない箱に、それらの玉をすべて入れて振りました。
「1つ取り出したら、白と黒のどちらの玉が出るか当ててみろ」
こう言われて婆さんは悩みました。
そこで次に一蓮院は、黒玉を2つ箱から取り出しました。
「箱には白玉5つ、黒玉3つが入っている。1つ取り出したら、どちらの玉が出るか当ててみろ」
婆さんは、なお悩みました。
「白玉のほうが多いので、たぶん白玉が出ると思うのですが・・・・」
「悩んでいるようじゃな、婆さん」
そこで一蓮院は、また黒玉を2つ箱から取り出し、どちらの玉が出るか聞きました。
「今度は白玉5つ、黒玉1つですから、白玉が出ます」
婆さんは自信ありげに言いました。すると一連院は、大きな声で言いました。
「黒玉が1つ入っているんだぞ!黒玉が出るかもしれないぞ!」
そう言われて婆さんは自信がなくなりました。
そこで一蓮院は最後の黒玉を取り出し、どちらの玉が出るか聞きました。すると婆さんは、「白玉出ます!」と自信満々で答えました。
一蓮院は言いました。
「黒が1つでも残っていたらすっきりしない、はっきりしないだろう。それが疑情というもんじゃ」
・阿弥陀仏の恩を知らない罪を知る
疑情というのは、阿弥陀仏の恩を知らない心です。
阿弥陀仏のご苦労を何も知らなかったことに対する懺悔が起きます。その罪の大きさは1000人殺したぐらいとは違うのです。
「仏智うたがうつみふかし この心おもいしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」(正像末和讃)
(訳:仏の智慧を疑う罪は深い。この疑うという心の罪の重さを知るならば、悔いる心を宗として、仏の不思議な智慧を信ずべきである)
「真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり」(高僧和讃)
(訳:死の解決をした人は、絶対に崩れない信心であるので、三品の懺悔をする人と等しいと、善導大師は言っている)
三品の懺悔とは、次の3つの懺悔のことです。
上品の懺悔:目から血の涙、全身から血の汗
中品の懺悔:目から血の涙、全身から熱い汗
下品の懺悔:目から熱い涙、全身から熱い汗
聴聞によらなければ、人間は深重な罪悪を自覚することができず、ここまでの懴悔をすることができません。
・すべては聴聞
どっこいしょしていることを自覚するのも、疑情の解決も、すべては聴聞で解決できます。また、聴聞でしか解決できません。
「とにかくに、信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなり」(御一代記聞書)
(訳:いずれにしても、信心を得たと思っている者も思っていない者も、ともに、心から仏法を聴聞すべきである)
・絶対信順
露塵の疑いもなく信じ切ることができます。
信前は阿弥陀仏に対する疑いがあるために救われませんが、信後は疑いが晴れ救われます。
「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」(改邪鈔)
(訳:苦悩の輪廻の根源である疑情が、他力の信心が開く一念に破れる)
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証)
(訳:阿弥陀仏の本願は誠であった。すべての生き物を決して捨てず救い取ろうという真実の言葉、常識を遥かに超えた稀有な正法、そのままの意味に受け取り自分の考えを入れてはならない)
・阿弥陀仏の恩に報いる
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」(恩徳讃)
(訳:阿弥陀仏の大きな慈悲への恩返しは、身を粉にしても報いるべきである。善知識方への恩返しも、骨を砕いてでも感謝すべきである)
それは、死の解決をし、開顕することです。
「大悲、弘く普く化すること、真に仏恩を報ずるに成す」(往生礼讃)
(訳:開顕し、人を救うことが真に仏の恩に報いることになるのである)
「他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」(正像末和讃)
(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏の恩に報いるために、往相と還相の二種の回向を、すべての世界に広めるのである)