阿頼耶識とは
阿頼耶とは、サンスクリット語「アラヤ」に漢字をあてたもので、中国語で蔵という意味です。
識は心の意味です。
すべての業が納まっている
阿頼耶識は一切の業を納める蔵のような心であるため、蔵識(ぞうしき)ともいいます。
業とは、サンスクリット語「カルマ」の中国語訳で、日本語では「行為」を意味します。業について詳しくはこちらを参照ください。
仏教は業が主体の教えです。業を造ると、阿頼耶識の中に結果を引き起こす力として納められるのです(薫習という)。
最も深い心
また、阿頼耶識は根本の心であるため、根本識ともいいます。
たとえば、人間には次の8つの心があると説かれますが、阿頼耶識は第8番目の最も深層にある心です。
眼識:視覚
耳識:聴覚
鼻識:嗅覚
舌識:味覚
身識:触覚等
意識:第六識にあたる心で物事を分別したりする心
末那識:第七識にあたる心で阿頼耶識の本当の姿を覆い隠す心
阿頼耶識:第八識にあたる心で最も深層にある心
人間の本体
阿頼耶識は生命の本体であり、六道輪廻の主体となります。
業の集積体である阿頼耶識は固定不変の存在ではなく、絶えず変化しており、唯識三十頌には「恒に転ずること暴流の如し」と、暴流のように阿頼耶識は激しく変化すると説かれています。
心理の真理
根本的な人間心理というのは万人共通であり、時代や場所によって変わることはありません。釈迦が生まれた2500年前のインド人であろうと、現代の日本人であろうと同じです。
阿頼耶識が、何よりも優先して知る必要がある深刻な心理であり、たとえば現代心理学で教える心理というのは、優先して知る必要のない浅い心理です。大乗仏教の視点から見れば、心理学は最終的に、この阿頼耶識を発見しようとしていると説いているわけです。
超心理学との共通点
超心理の範囲も広いですが、たとえば東京帝国大学助教授で念写の発見者である福来友吉の結論は次のようなものです。
1.過去経験(記憶)は不滅である
2.過去の経験は、脳髄皮質中に保持されているものではなく、霊魂そのものの中に完全に存在している
3.脳は、過去経験を貯蔵する器でなく、過去経験を再現させる喚想機関にすぎない
4.記憶と喚想とはまったく別物である。喚想は脳の活動によって完全・不完全の別があるが、記憶そのものは喚想の完全・不完全によらず常に完全である
5.よって、脳は消滅しても、過去経験は依然として存在している
業や阿頼耶識の特徴と似ています。
他にも超心理の研究結果との共通点は多々あります。
科学が近づく阿頼耶識
「現代は、唯識が哲学として求めたことの多くが科学的事実として知られている時代でもあります。このことは、唯識にとって、また仏教にとってまことに幸せなことで、仏教は恵まれた時代にあるといえましょう」(泉美治/大阪大学名誉教授)
「西洋では仰々しく『無意識の発見』などと言っているが、仏教ではそんなの当たり前のことだったのではないか。仏教の『唯識学』などは深層心理学そのもので、千年以上もたってから西洋で『発見』などと言い立てることもない」(河合隼雄/元文化庁長官/京都大学名誉教授)
科学が発見してきた証拠も多くの共通点があります。以下、参考記事です。
心はいつからあるのか。生き物の命の価値はどのくらいか。科学と仏教の生命観を比較する。
因果応報は正しいか?科学は因果応報を証明できるか?
末那識との関係
「無常」が真実であるのに、「常」と見てしまう妄念が人間にはあります。
他にも「苦」に対して「楽」、「無我」に対して「我」、「不浄」に対して「浄」と見てしまう妄念があり、「常」を含めて四顛倒といいます。
この強力な妄念があるため、たとえば、どんなに強い恐怖を感じても、その恐怖は続きません。そして、絶体絶命の状況に置かれても「自分だけは絶対に死なない」「死は怖くない」と思ってしまうのです。
また、肉体は入れ物であり本体は魂(阿頼耶識)であることを頭ではわかっていても、それもすぐ忘れてしまいます。仏説譬喩経には、この妄念を含め、人間の実相を教えた次のような話があります。
悪の根源
この強力な妄念は阿頼耶識から生じるものですが、根源を辿っていけば、正確には末那識が阿頼耶識に作用して生じるものです。
阿頼耶識が最も深層の心ですが、その1つ上の第7番目の層に末那識という心があります。末那識は阿頼耶識を布団のように覆っており、本当の姿を見えなくする働きがあります。この妄念から無数の悪が生み出されるため、末那識は悪の根源というべき存在です。
世間というのは、この妄念によって麻痺した人間が集まった世界です。「自分だけは死なない」「人生は楽しいところ」「人間は美しい」といったことを自分も信じ、人にも信じさせようとします。そして、この妄念に反して「死」や「苦」を主張する人を忌み嫌うのです。
求道は阿頼耶識を意識化する道
この記事で詳しく説明した通り、求道は自己を知る道ですが、自己を追求していくと、最も深い心であり、真実の自己である阿頼耶識が見えてきます。生命が無意識を意識化する方向へ進化していますが、最終的には阿頼耶識を意識化することにあります。
「内を見る目がとらえた統合力は、最も進化した統合力としての共通感覚であるが、その共通感覚によって、今度は、その共通感覚の基盤となっている根源の統合力を意識的にとらえることができる。その意識がとらえた根源の統合力こそ『私』という感覚である」(望月清文/城西国際大学教授)
聴聞と阿頼耶識
求道は、聴聞の一本道ですが、聴聞は、正確には「聴」と「聞」に分けられます。
「聴」は、「自分から出て聴く」ということであり、法座で善知識の説法を聴くことを指します。「聞」は、「向こうから聞こえてくる」ということであり、阿弥陀仏の呼び声を聞くことを指します。「南無阿弥陀仏」の六字の名号を賜り、阿頼耶識に阿弥陀仏の呼び声を聞信させることをいい、これを「聞即信の一念の体験」ともいいます。
・意識から阿頼耶識へ
阿頼耶識は、人間の最も深い深層心理であるため、いきなり聞かせることはできません。ですので、まずは浅い心である意識(頭)から入って「聴」を繰り返し、最終的には深い心である阿頼耶識(腹底)に「聞」と聞かせるという流れを辿る必要があります。電波が流れても周波数が合わなければテレビやラジオが流れないように、「聴」を繰り返すことで阿弥陀仏が流す念力を受け取れるように心を調整し、周波数が合った瞬間に「聞」と聞くことができます。ですので正確には、仏教は「聴」で始まり「聞」で終わるということになります。
阿頼耶識が見えれば求道のレールに乗る
どんな人も聴聞を繰り返すことで、じりじりと求道が進んでいきます。末那識が布団のように覆っているため、阿頼耶識は隠れて見えなくなっていますが、千座・万座と聴聞を重ねていくことで、その布団を1枚1枚剥がすことができます。すると、阿頼耶識が段々と薄ぼんやりと見えるようになってきます。
さらに聴聞を続けると、やがて阿頼耶識が手に取るようにはっきりと見えてきます。そして、必死の求道、必死の聴聞が始まります。阿頼耶識には一切の業が納まっていますが、こちらの記事で説明した通り膨大な悪業が納まっています。
そして、同時に求道のレールに乗ることになります。一度このレールに乗れば、ほとんどの人が脱線することなくゴールまで辿りつくことができます。
死の解決は生きながら死ぬ体験
死は大きく「肉体の死」と「心の死」に分けられます。一般的にいわれる死というのは、心と肉体の両方が同時に死にますが、死の解決は肉体は生きたまま心(阿頼耶識)が死ぬ体験です。無限の悪業を見ることになり即死するのです。
「平生のとき善知識の言葉の下に、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし」(執持鈔)
(訳:生きている時に死の解決をすれば、その瞬間が心の臨終である)
・生きながら極楽に生まれる
そして、地獄に堕ちたと同時に、一念で極楽に生まれることができます。地獄に堕ちたのが先か、救われたのが先かという境地です。肉体は穢土のままですが、人間の本体である阿頼耶識が、生きながら極楽浄土に生まれているということです。
「超世の悲願聞きしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
(訳:死の解決をした瞬間から、もう苦しみ迷いの凡夫ではない。煩悩がある身であることに変わりはないが、心は極楽浄土に遊んでいるのである)
一念で救われるので、完全に死ぬ一刹那まで諦めてはなりません。